特に米第25師団の本隊が名古屋に上陸してから10日間位経過した頃から、婦女子への暴行事件が続発するようになった。…ことに夜の一人歩きの女性や娼婦風の女性が基地内に連れ込まれて夜通し大勢の米兵に輪姦された挙句、朝方になって無残にも軍用ナイフで刺し殺されたり、また銃殺されたりした。その上、犯行を隠すために遺体は、基地の北側を流れている横運河に投げ捨てられていたこともあった。…運河の中から引き揚げられた遺体は、米軍の犯行と分かっていても大抵の場合は、「生活苦による入水自殺」として片づけられてしまった。(p.246)
米英軍将兵が引き起こした数々の暴行事件や悪質な不法行為も戦後史の中に記述されておらず、すべて欠落している…これはその当時、政府機関をはじめ各地方公共機関が編纂した各種の行政年報や報告書等でも明確に実証されている。…進駐軍の厳しい言論の検閲を怖れた結果、占領軍の不法行為に関する実態の記述については、すべて‥自ら削除してしまったからである。(p.255)
米軍は占領初期の頃の日本を密かに食糧攻めにして、容易に立ちあ上がれない様にしておく事を重要な占領政策にしていた…。そのため窮乏していた日本の主要食糧の米や麦は、昭和20年度産の米作が悪天候による不作を理由にして、米軍の厳しい指示により日本国民の主食の配給量を極限に近いところまで減らしたり欠配させていたのである。
師団長モラン(C.I.Mullins)少将
「連合国軍の日本占領を成功させる手段としては、先ず日本人の食糧不足を利用して、当面は食糧を封鎖して日本人の抵抗意識を防止することを第一目標にする。…次に…徐々に米国の余剰農産物を活用して無償援助または有償援助を実施して、日本人に恩義を感じさせる。それまでは、たとえ日本農業の米麦が増産されたとしても、配給量を絶対に増加する許可を日本政府に与えてはならない」(p.p.136-137)
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