Sunday, March 13, 2016

矢幡洋 『平気で他人の心を踏みにじる人々』 : 反社会性人格障害とは何か


Yahata, Y. (2006). Heiki de hito no kokoro o fuminijiru hitobito: Han shakaisei jinkaku shōgai towa nanika. Tōkyō: Shunjūsha.

[パーソナリティ研究の世界的権威であるミロンは]反社会性パーソナリティ障害には遺伝的な要因が存在すると明言している。(p.51)

[反社会性パーソナリティ障害者は]底の浅い合理化を行う。「ものをいうのは力だけだ」「オレはただ正直に生きているだけだ。ほかの連中はエゴイストのくせに、みんな偽善的にふるまっているのだ」「ほかのやつらはバカか、不公平な社会に妥協しているだけなのだ」―彼らは自分の[反社会的]行動をこのように正当化し、「俺たちのやりかたこそ、こんな世の中では有効なのさ」と自己肯定する。
・・・また投影の機制によって、自分自身の搾取的な衝動を、他人に帰属させてしまう。(p.94)

[反社会性パーソナリティ障害者は]自分のずるさや攻撃性を、他者や外界に投影する。これによって彼らはすぐ、他人が悪意をいだき、悪だくみをしていると疑う。・・・本当は自分のなかに存在する悪意と策略を、他人のなかに存在していると感じることで、自分は他人の悪意の被害者であって、自分の権利を守るために、やむをえずダーティなことをせざるをえないのだ、と考えることができる。自分の攻撃的な行動を、あくまでも防衛的なものであると正当化できるわけである。(p.134)

[事例] 池田小学校児童殺傷事件

・・・野外活動で昼食を食べそびれた四人の教員が、校務室で食事をとろうとしたところ、[校務員として赴任していた]宅間が出したお茶を飲んでしばらくして眠気や頭痛を訴えはじめた。宅間は、自分がもらっていた精神安定剤をお茶に混入させていたのである。宅間は「先生たちが自分を無視している」と感じており、「うっぷんばらし」だったという。(p.138)

[反社会性パーソナリティ障害者は]「自分たちにも与えられるはずのものを与えられていない」という屈辱感があり、心の底はつねに、既存の社会に対する怒りと復讐心をいだいている。そのため、ただまじめに働くことで何かを手に入れるより、他人の裏をかいたり、不当な手段を用いるといった、危ない橋を渡って獲得するほうが強い喜びを感じる。
・・・殊に、社会で成功し、高い地位を持っている人たちに対して、激しい反発と敵意を感じるため、彼らよりも社会的に上とされる人が惨めな姿をさらすのを見て、とりわけ強い喜びを感じる。他人から略奪できた、他人をその地位から引き摺り下ろすことができたと感じるとき、復讐心が満足されるからである。(p.111)

[事例] 池袋通り魔殺人事件

[造田博は]以前から嫌っていた同僚に携帯電話の番号を訊かれて教えたところ、同じ日に無言電話があった。(p.182)


[反社会性パーソナリティ障害者は]「ほかのやつらだって同じことをやっているのさ。ただ、やりかたが狡賢いからばれないだけだ」「だいたい、いまの社会が根っこから腐り果てているから、俺がこんなやりかたをするのも仕方がないんだ」というわけである、そのため、通常ならば自責の念が起こることでも罪悪感を感じない。(p.117)


[事例] 武富士フリージャーナリスト盗聴事件

[武井会長は]警察職員にビール券を送るなど、警察とも癒着しようとしており、警視正(当時)ら三人が、武富士の元法務課長の求めに応じて犯歴などの捜査情報を漏らしていたとされ、警察内でも処分者が出ることとなった。(p.153)


[反社会性パーソナリティ障害者の]イメージのなかでは、すべてのものが価値を切りさげられる。・・・異性に対しても、金ヅルを探しているだけの卑劣な連中であると思い、友情や師弟関係といった肯定的な人間関係であっても、自分が相手に騙されているだけだと考えがちである。・・それだけ他者を警戒する結果、彼らは、他人に搾取されない方法はふたつしかないと考えるようになる。
・・・ひとつの方法は、彼らに実害を及ぼすことができる力を、他者から奪いとってしまうことである。他人から人に命令するような権力を奪いとり、自分が他人を左右するような立場にとってかわることが重要なのである。(p.p.127-128)

[事例]スーパーフリー事件

 [集団強姦の常習犯である]和田真一郎は・・・まず女性を低劣な存在であるとみなす心性が顕著である。たとえば、輪姦を正当化する「女は撃つ(幹部のあいだで使われていた、性行為を言いする隠語)ための公共物」というスーパーフリー内の発言によく現れている。・・・二〇〇三年四月には、「地方の鬼畜化が必要」と称して、輪姦に参加させるため、北海道支部のメンバーをひとりずつ東京に呼んだこともある。(p.p.129-132)


[反社会性パーソナリティ障害者は]欲望の充足に向かう衝動への抑制は弱く、その閾値は低い。・・・彼らの求めるものは、すべてが所有欲や性欲など、非常に原始的な欲望でしかないことがほとんどである。・・・彼らが駆り立てられるように欲望を追求するのは、獲得したものによって、不快満足感を感じることができないからである。・・・自分が獲得したものの価値をどんどん切りさげてしまうので、略奪したものにも、たちまち魅力を感じなくなってしまうのである。
 このため、彼らの内面は空っぽで、きわめて虚ろなものになる。・・内的な深みのある満足感を感じることができないからこそ、[性的、物質的な満足を外部に求めるが]それもきわめて刹那的なものにとどまるため、飽くことなく、欲望対象の獲得を求めつづけなくてはならないのである。(p.p.140-141)


[ベックによる道徳性の認知に関する三つのレベルのうち]最も低いレベルは、自分の利益だけを考えて行動するレベルである・・・患者は直接的な報酬を求めて行動する。「その場で罰を受けない」ことしか考慮に入れない。多くの反社会性パーソナリティ障害の例は、この水準の道徳性で機能して[いる]。(p.190)

小池 龍之介 『3.11後の世界の心の守り方』

Koike, R. (2011). San ichiichi go no sekai no kokoro no mamorikata: Bācharu kara riaru e. Tōkyō: Disukabātuentiwan.

快感イコール幸福という思い込みのなかで

おそらく明治維新、十九世紀の後半くらいから、日本人の間に徐々に浸透してきた、快感こそが幸福だ、という思考スタイルと、それに基づいて築き上げてきた文明こそが、じつはうつ病を大量に発生させ、年間3万人以上の人が自ら命を絶つという異常事態を引き起こしているように私の目には見えます。(p.59)

「快感」獲得の歴史

私たちが快感をおぼえているとき、脳内には、ドーパミンという神経伝達物質が放出されています。それが脳の局部[tegmentum]を刺激するとき心地よさが生じ、刺激し終わると物足りなさと倦怠感が残るため、再びもっとドーパミンを出したくなる、という仕組みです。(p.61)
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快感」が過剰になると、かえって欠乏感が増す?

皮肉なことに、快感を感じたくて楽しんでいるはずが、かえって<足りない>という欠乏間が増大してゆく、ということです。
・・・こうして多くの現代人が<不感症>になり快感がすっかり飽和したかのように見えていた時代に、その飽和状態を塗りかえるかのようにして出てきたのが、インターネットだったように感じております。情報とコミュニケーションにより得られる<快感>が、最新の商品として現在は市場を席巻しているように見えます。(p.p.64-67)

ソーシャルメディアの麻薬的性質

<コミュニケーションのやりとりを多くの他人が見ている>という仕組みのほうが中毒化しやすい・・・[この]本質はツイッターやフェイスブックでも変わっていないようです。他人とのやりとりそのものを一般公開することによって、<自分がいかに人とつながることができているか>を実感し直す、というさびしい営みによって、快感が脳内に生み出されているのです。(p.81)

<自己洗脳>を解く

無防備にテレビを観たり、インターネットで情報の洪水を浴びたりしているうちに、私たちの心はその都度、快や不快を感じつつ、記憶のなかに不必要な思考を植え付け、いつのまにかある種の<洗脳>を受けてしまいます。
そのいわば<自己洗脳>を解いて目を覚ますには、情報にアクセスしたときには、「自分が快を感じているのか不快を感じているのか」「自分の脳内ではどういう思考=非現実が生じているのか」と点検しておくことが、じつに役立つことでしょう。(p.27)


記号的ヴァーチャルから身体的リアルへ

 今回の災害では、海外メディアが、このような悲惨な状況のなかにあってもお行儀よく助け合う日本人を賞賛し、さかんにもてはやしました。私のところにも、日本人に学ぶべきといったテーマで、韓国から取材がありました。どうして日本人はこういうときにも協力し合えるのかと。
 そこで答えました。日本人というより、東北人だからなんですよ、と。もし、同じ地震が、快感中毒者の集まる東京で起きていたとしたら・・・・。今回のことは、日本人がすばらしいのではなく、東北の人たちだったからのことだと思います。
 私が思うに、東北の人たちというのは、日本のなかでも、東北に残ろうという選択をしている人たちです。・・日本にいる多くの人たちが東京に行きたいとか、大阪に行きたいとか・・とにかく情報があるところに行こうとするなかで、いや、東北はすばらしい、ここは生まれ故郷だし、自然も多くて、食料も生産している、誇りに思えるすてきな場所だと思っている人が残っているのだと思うのです。
 少なくとも快感を最大化したいという人は、東北には残らなかったでしょう。 (p.p.95-96)