Sunday, June 2, 2019

池田整治『未だ占領下にある日本の是非を問う』

Ikeda, S. (2019). Imada senryōka ni aru nihon no zehi o tō: Nichibei chii kyōtei o jieitai motokanbu ga kokuhatsu suru. Tōkyō: Kosumikkushuppan.

最も信頼していた友人が実は敵の回し者だったと知ったら

1993年、私が陸上自衛隊幕僚監部防衛部運用係長だった頃、北朝鮮のノドンミサイル対処で、横田・平壌空路の存在を知りました。横田・平壌空路とは、米軍横田基地と北朝鮮平壌空港を結ぶ定期航路です。
この空路を使って米軍は、大型輸送機に資機材を搭載し、運んでいました。北朝鮮の基地建設材やミサイル部品と思われますが、日本外務省の担当の問い合わせに米軍担当は、「それ以上詮索すると日米関係にひびが入るぞ!」と答え、それ以降「なかった」ことにされています。(p.p.85-86)

その輸送機には日本製のブルドーザーが入っていたこともあります。‥世界金融支配体制の軍事部門が、北朝鮮に基地をつくってやり、さらに精密部品を提供してミサイルをつくらせ発射させ、その脅しで日本から[ミサイル防衛]資金を収奪する、という構図が見えてくるのです。(p.187)

横田空域の秘密


もしこの空域がなければ、例えば、羽田空港→伊丹空港の所要時間が現在50分であるところが30分となり、20分程度短縮できます。燃料も毎年約11万キロリットル節約できるといわれています。…もちろんこの消費燃料代はコストとなって航空運賃に含まれ、乗客が余分に負担しています。
ちなみに、1985年8月12日、羽田を飛び立ち大阪(伊丹)に向かったJAL123便は、この横田空域の上空でトラブルを起こしました。もし、横田空域がなければ、もっと低空を飛んでいて事故にあわなかったかもしれません。機長は直ちに横田基地への着陸を要請したものの、断られたという話も伝わっています。(p.47)


戦後から続く米軍の占領体制とは米軍の欲する部隊を運用する自由

6年間に及ぶ占領時代は、文字通り治外法権の米軍が溢れ、悲惨な事件も多発しました。‥約3万人の婦女子が暴行を受けたと言われていますが、GHQの「プレスコード」により、ニュースに流れることはありませんでした。‥市民が占領軍に治外法権のもと、凌辱を受けていたわけです。(p.117)

米国が日本だけをいつまでも支配する本当の理由

そして、GHQは日本人を洗脳(マインドコントロール)する一環として、白人支配の根幹に触れる本を焚書、発禁しました。それを免れた数冊の本が私の手元にあります。

『思想戦と国際秘密結社』晴南社 
『新聞とユダヤ人』欧亜通信社 
『ユダヤの人々』軍人会出版部 
『ユダヤのタルムード』破邪顕正社 


これらの書を読むと、かつての日本人が西欧社会の本質、国家を超えた資本家による世界支配の実態をよく分析していたことがわかります。
逆にいうと、だからこそGHQは、世界金融支配者にとって都合の悪いこれらの真実の本を日本から葬ったのです。その数なんと、約7700冊!(p.p.103-104)

Saturday, June 1, 2019

小田周二『524人の命乞い : 日航123便乗客乗員怪死の謎』

Oda, S. (2017). Gohyakunijūyonin no inochigoi: Nikkō hyakunijūsanbin jōkyaku jōin kaishi no nazo. Tōkyō: Bungeisha.


‥一人の乗客がカメラを123便の窓の外に向けて夢中で撮った空飛ぶ点影の写真。‥遺族は早速、その写真をマスコミに公開したいと考えた。ところが、群馬県警がそれを制止した。‥惨劇の犠牲者が最後に見たものを写したフィルムを遺族から取り上げて保管し続けた。このフィルムが遺族の手に戻されたのは、それからじつに5年後の歳月を経て‥事故についてもはや誰一人として刑事責任を問われないことが確定した後、さらに付け加えればもはや過失致死事件としての「時効」が成立した一週間後のことだ。(p.48)

◆告白―最後のパズルピース
123便が墜落したその日、ある航空自衛隊の基地司令官(当時)から一人の男性に電話が入った。この司令官は、電話の向こうで男性にこう言った。
「えらいことをした。標的機を民間機に当ててしまった。今、百里基地から偵察機2機に追尾させているところだ」
この司令官と男性とは、第二次世界大戦中に同じ部隊に所属した戦友だった。共に同じ戦争の時代を過ごした軍人同士の絆は強く、長い年月を経ても相互の信頼は厚いと言われる。その信頼ゆえの気安さだろうか。電話口の向こうで語る基地司令官の声は、まるで「やっちまったよ!」とでもいうようなあけっぴろげな調子に聞こえたという。(p.p.51-52)

◆前橋地方検察庁の不起訴判断
90年7月17日、前橋地方検察庁は告訴・告発されていた関係者について、いずれも不起訴を再決定した。…山口検事正が遺族の前で語ったのは、事故調が描いた事件のシナリオに対するあからさまな批判と否定だった。
<最終報告書を読んだが、修理ミスが事故の原因どうかわからない。> <事故調の報告書は、「曖昧」だと思う。> <機内が静粛であったのだから、隔壁は破壊していない可能性がある。> <ボーイング社は(同型機全体の問題ではなく)事故機だけの原因にしたくて修理ミスを認めたのかもしれない。> <それ(報告書)を見ても、真の事故原因は解らない。> (p.p.20-21)

◆消えたボイスレコーダーの記録
公式に事故調から発表されているCVR(コックピットボイスレコーダー)の中には、アントヌッチ中尉が輸送機の中で聞いたという横田管制と123便の間の交信に該当する会話が採録されていないのだ。123便が刻々と横田基地に近づいている時間帯。その時間帯のCVRには、123便から横田への着陸要請や着陸を受け入れる旨を伝えた[とアントヌッチ中尉が10年後に主張する]横田からの通信が一切残っていない。(p.p.75-76)

◆事故から10年後 衝撃の「アントヌッチ証言」
‥事件から10年後の95年8月20日、『サクラメント・ピー』紙に、自分が123便墜落事件で経験したことを手記にまとめて発表した。さらにその内容は、米軍の準機関紙『星条旗(Stars and stripes)』紙に転載発表される。(p.153)

◆事故直後には真実を知っていた報道陣―政府は真実の報道を禁じた
某新聞記者は、自衛隊ヘリが墜落現場からオレンジ色の残骸を吊り上げる写真を撮った。本社に送られたその写真は、翌朝の朝刊トップに載るはずだった。ところが、この写真はなぜか没になった。‥後に自衛隊の機材にはオレンジ色の塗装がされていることが分かり、やっとその重大性を認識したという。(p.196)