二十世紀はどんな時代だったか
第一は、近代とは、人類の史上でも最大の戦争を二度もやった時代です。そして使い方次第では人類が絶滅しうるような戦争の道具、核兵器を作った時代だということです。
…それから第二に、近代、特に二十世紀は、資源の浪費と環境の汚染・破壊という意味で、いわば自分自身の立っている足もと・足場を崩しつつある時代だといっていいと思います。
…それから第三点は、近代は、すべてを物質に還元して捉える科学――というより「科学主義」がはびこって、人間の心、精神性、人間が人間として生きていることの意味が見失われつつある時代だといっていいと思います。
…そういう目で人間自身を見ていきますと、人間も結局のところは物の集合体・運動体にすぎないと見えてきます。もちろんただの物には意味がありえません。…意味がないということを突きつめて考えますと、非常に空しくなります。とことん突きつめると自殺したくなったりしかねませんから、ふつうは見つめないで、何となくそういうことは考えないで、とりあえず生きることにしているわけです。
…しかし、人生に意味はないのだけれども、とりあえず自分自身の快感・不快感はありますから、そうなると、「自分の快楽を追及して生きるしかない」という話になりかねません。その場合、根源的に意味がないものには善悪もありえませんから、自分勝手に生きることをとどめるものは、他の人が迷惑だというので止めること以外にはないことになります。そうすると、「迷惑さえかけなければ何をしてもいい」という考え方が一つ出てきます。 もっと突きつめていきますと、「迷惑をかけてもばれなければいい」という考え方にもなりかねません。
もっと進みますと、「たとえばれても自分の方が強くて他者から制裁を受けなければいい」というところまでいってしまいます。
…そういう生き方をみんながしていくと、さまざまなところで社会的に大きな問題が起こってくる。社会的にも精神的にも、深刻な問題が出てくると思います。(p.p.12-15)
分別知とニヒリズム―エゴイズム―快楽主義
日本の庶民は、つい最近まで、神と仏と天とご先祖さまがほぼ同じものだというふうな、漠然とした、しかし根強い世界観を持っていたと思われます。それは、明治維新までは、全国津々浦々、どこに行っても通用する、いわば暗黙の国民的合意だったのではないか、そして、それがみんなが正しく生きることの根拠にもなっており、それは、そうとう程度、最近まで生きていたのではないか、と私は推測しています。
…こうした、一見あいまいのように見えて、実は確かなものだった「より大いなる何ものか」とのつながりの感覚やそれへの畏敬の念、つまり「神仏儒習合」の世界観は、まず明治維新の神仏分離で、弱体化されてしまいますが、それでも戦前まではかなり根強く生きていたと思いますし、それが社会の精神的・倫理的な安定性を支えていたのではないでしょうか(戦前がすべてよかったなどといいたいのではありませんが)。
ところが、戦後、アメリカの民主主義・合理主義的な教育政策によって、公教育と宗教全体も完全に分離されます。そして、公教育の場では、結局のところ、すべてのものは物質主義科学によって説明できる組み合わせにすぎないという結論に至るような知識が、朝から晩まで、子どもの心に注入されていきます。
これは表のプログラムとしては、理性や科学やヒューマニズムを教えているのですが、その裏で、教える側も気づかないうちに、「人間も結局はただのモノであり、だから生きていることには結局意味がないし、人間を超えた神や仏や天などただの神話で、だから生きていることには結局意味がないし、人間を超えた神や仏や天などただの神話で、だから絶対的な善悪もない。だから人間は、自分を大事にして、自分の生きたいように生きるしかない。それは人間の権利だ」という人生観を教えた結果になっているのだと思います。
…しかし人間を超えた「より大いなる何ものか」の存在という絶対の根拠はかんがえられていませんから、ほんの少しずれると「人間はだれだって自分がいちばん大事なのだ。だから、余裕があるときはひとも大事にするが、余裕がないときは大事にできなくてもしかたない」、さらにもう一歩進むと「ひとに迷惑かけなければ、自分がやりたいことは何だってやっていい」という、小市民的なエゴイズムになってしまいますし、さらに一歩誤ると「悪いことをしても、ばれなければいい」、さらに「悪いことをしてばれても、自分に力があって社会的な制裁を受けなければいい」というところまで行ってしまう危険を底に秘めています。
つまり神も仏も存在せず、モノがあるだけの世界は、つきつめると必ず意味がないということになります。それがニヒリズムです。
そして、人間の命もモノの寄り集まりにすぎないのですから、もちろん意味はないのですが、なぜか生きていて、とりあえず自分の気持ちいい悪い、好き嫌い、快不快はありますから、それを追及して生きるしかない、と考ええる。それが快楽主義です。そうしてみても、死んだらすべて終わりで意味ないのですが。
つまり、近代的な理性、科学主義的な世界観には、もちろんプラス面もあったわけですが、そのマイナスの面が徹底的に進むと、必然的にニヒリズム―エゴイズム―快楽主義に陥ってしまうという本質的な限界を持っています。それは、人類が歩みを始めたときからずっとかかえていた分別知の限界なのです。(p.p.394-397)
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