岸田, 秀, Kishida Shū. (1997). ふき寄せ雑文集. 文藝春秋.
筆者は十何年か前、戦後の日本の高度経済成長は別の形での対米戦争の継続であると論じたことがあるが、最近あるアメリカ人が同じような見方を述べているのを読んだ(Theodre H. White, "The Danger from Japan", The New York Times Magazine, 1985, 7, 26)。彼は、日本はミズリー号上で降伏文書に署名したことになっているが、太平洋戦争はまだ継続中で勝敗の決着はついていないと言うのである。日本側がこのことを自覚していないのは危険である。こちらは自覚していなくても相手には見えるから、不可避的に認識のズレが生じ、しかもそのズレの原因がこちらにはわからないからである。対米貿易摩擦の一因は日本側のこの無自覚にもあるのではないかと筆者は思っている。(p.53)
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アイデンティティは過去から現在に至り、未来へと展開する連続性があってこそ保たれるが、この[現代日本の]物語は、明治維新から敗戦までの、とくに戦争中のわが国の歴史を単に「過誤」とか「愚劣」とか「無謀」とか言って無視するだけで、その当否は別としてそれなりに理由があったことを否定するから、連続性を切断して空白の部分をつくる。これでは国家の物語として失格である。
個人の場合も、現在から見て自分でもそのようなことを自分がしたとは信じたくないような愚行がかつてあったとき、「あのとき自分はどうかしていた。あれは本来の自分ではなかった」ということで、現在の自分の物語を「どうかしていない自分」、「本来の自分」だけを材料としてつくるなら、その物語は当の個人のアイデンティティ支え得ないが、それと同じである。
なぜどうかしていたのか、どうかしていた行動へと自分を駆り立てた要因は何かを知り、その要因を自分の物語のなかに織り込むのでなければ、繰り込まれなかった要因が背後から自分の物語を突き崩す。(p.48)
…敗戦後、大日本帝国の物語が、そのようなものを信じていたのは一部の気違いだけだったと言わんばかりに簡単に捨て去られたその簡単さは、この物語の根の浅さを示している。同じ態度から出発した戦後民主主義の物語も同じ運命を辿るであろう。そのうち、あのようなものを信じていたのは一部の馬鹿だけだったということになるかもしれない。
民主主義とは民衆が主人であるということであるが、日本の民衆はいまだかつて主人になったことはない。(p.49)
しかし、…条件をすべて充分に満たした物語を持っている国は見当たらない。アメリカの国家物語(建国神話)がゴロツキの人殺しをピルグリム・ファーザーズという聖者に仕立てあげるという欺瞞を出発点としているため、アメリカに多くの過誤を犯させている・・・、ソ連の国家物語も欠陥だらけであって、建前と実態との喰い違いが甚しく、そのため、同じ共産圏の周辺諸国とすら摩擦が絶えないだけでなく、国民の多くを収容所に閉じ込めなければならない羽目になっている。朝鮮は北と南で相容れないそれぞれ別の国家物語をもってしまったため、統一を妨げる外的条件が皆無になったとしても統一の見通しは立たない。…しかし、国家が存立するためには物語が必要不可欠であるから、欠陥だらけの物語でも捨てるわけにはゆかず、おいそれと新しい物語も見つからない(p.52)
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