Friday, October 23, 2026

岸田秀 『ものぐさ精神分析』

 岸田秀, 1933-, author, Kishida Shū., & Kishida, S. (2024). ものぐさ精神分析 (Zōho shinpan). Chūō Kōron Shinsha.

たとえば、アメリカの独立宣言に表明されている自由、平等、民主の共同幻想の背後には、アメリカ大陸の「発見」当時に北米に一〇〇万はいたと推定される原住民が二〇万を下回るに至った大量虐殺の経験があった。アメリカの共同幻想はこの経験の抑圧と正当化に支えられている。そのため、アメリカの共同幻想は硬直化し、この共同幻想にその私的幻想を共同化しようとする成員(アメリカ国民)に安定感と確実感を与えるものではなくなっている。どこかうしろめたく、うさんくさいのである。またそのため、抑圧し正当化したもとの経験に類似した経験に関して、アメリカ国民の精神構造に盲点が生じ、類似の経験が強迫的に反復されるようになる。
したがって、アメリカは、その不確実感、不安定感を補うため、他民族にその共同幻想を押しつけ、またときには他民族を大量虐殺するよう強迫的にかり立てられている。広島、長崎への原爆投下、ベトナムにおける大量虐殺は、インディアンの大量虐殺の経験の強迫的反復である。(p.p.68-69)
…アメリカが他民族の大量虐殺というその反復強迫をやめるようになるためには、原住民の大量虐殺の経験を正当化するのをやめなければならない。これは大変なことである。それは、欺瞞と暴力で奪った土地を原住民に返すことを意味し、さらに、自由、平等、民主のその共同幻想が偽りに過ぎなかったと認めることを意味する。これはアメリカ国家の基盤を崩すことである。しかし、この正当化をやめないかぎり、今後もアメリカは、チャンスと口実さえああれば、どこかの民族を大量虐殺するであろう。(p.p.70-71)

Thursday, October 22, 2026

岸田秀 『ふき寄せ雑文集』

  岸田, 秀, Kishida Shū. (1997). ふき寄せ雑文集. 文藝春秋.


筆者は十何年か前、戦後の日本の高度経済成長は別の形での対米戦争の継続であると論じたことがあるが、最近あるアメリカ人が同じような見方を述べているのを読んだ(Theodre H. White, "The Danger from Japan", The New York Times Magazine, 1985, 7, 26)。彼は、日本はミズリー号上で降伏文書に署名したことになっているが、太平洋戦争はまだ継続中で勝敗の決着はついていないと言うのである。日本側がこのことを自覚していないのは危険である。こちらは自覚していなくても相手には見えるから、不可避的に認識のズレが生じ、しかもそのズレの原因がこちらにはわからないからである。対米貿易摩擦の一因は日本側のこの無自覚にもあるのではないかと筆者は思っている。(p.53)

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アイデンティティは過去から現在に至り、未来へと展開する連続性があってこそ保たれるが、この[現代日本の]物語は、明治維新から敗戦までの、とくに戦争中のわが国の歴史を単に「過誤」とか「愚劣」とか「無謀」とか言って無視するだけで、その当否は別としてそれなりに理由があったことを否定するから、連続性を切断して空白の部分をつくる。これでは国家の物語として失格である。
個人の場合も、現在から見て自分でもそのようなことを自分がしたとは信じたくないような愚行がかつてあったとき、「あのとき自分はどうかしていた。あれは本来の自分ではなかった」ということで、現在の自分の物語を「どうかしていない自分」、「本来の自分」だけを材料としてつくるなら、その物語は当の個人のアイデンティティを支え得ないが、それと同じである。
なぜどうかしていたのか、どうかしていた行動へと自分を駆り立てた要因は何かを知り、その要因を自分の物語のなかに織り込むのでなければ、繰り込まれなかった要因が背後から自分の物語を突き崩す。(p.48)

…敗戦後、大日本帝国の物語が、そのようなものを信じていたのは一部の気違いだけだったと言わんばかりに簡単に捨て去られたその簡単さは、この物語の根の浅さを示している。同じ態度から出発した戦後民主主義の物語も同じ運命を辿るであろう。そのうち、あのようなものを信じていたのは一部の馬鹿だけだったということになるかもしれない。
民主主義とは民衆が主人であるということであるが、日本の民衆はいまだかつて主人になったことはない。(p.49)

しかし、…条件をすべて充分に満たした物語を持っている国は見当たらない。アメリカの国家物語(建国神話)がゴロツキの人殺しをピルグリム・ファーザーズという聖者に仕立てあげるという欺瞞を出発点としているため、アメリカに多くの過誤を犯させている…、ソ連の国家物語も欠陥だらけであって、建前と実態との喰い違いが甚しく、そのため、同じ共産圏の周辺諸国とすら摩擦が絶えないだけでなく、国民の多くを収容所に閉じ込めなければならない羽目になっている。朝鮮は北と南で相容れないそれぞれ別の国家物語をもってしまったため、統一を妨げる外的条件が皆無になったとしても統一の見通しは立たない。…しかし、国家が存立するためには物語が必要不可欠であるから、欠陥だらけの物語でも捨てるわけにはゆかず、おいそれと新しい物語も見つからない (p.52)


Wednesday, October 21, 2026

岸田秀 『唯幻論始末記』

 岸田秀, 1933- author, Kishida Shū., & Kishida, S. (2019). 唯幻論始末記 : わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか. Isoppusha.


アメリカのイコールパートナーという自己欺瞞
ハル・ノートは日本を対米宣戦布告へと追い詰めたが、アメリカには日本を追い詰めた自覚はないであろう。・・・一部の者を除き、軍事力・経済力・工業生産力が格段に劣る日本が大いなる希望に燃え喜び勇んで戦争を始めたわけはない。
アメリカ空軍は八月十五日の朝まで本土空襲を止めなかったが、若者のほとんどは前線へと駆り出されていたので、女子供と老人しか残っていなかった日本本土の都市のほとんどを焼け野原にした空襲は、非軍事地域の非戦闘員の虐殺であり、明らかに戦争犯罪であった。
日本の敗北は決定的となっており、アメリカが勝つためにもはや不要であったにもかかわらず、原爆を投下したのはなぜか。…アメリカは敵対した生意気な日本を根こそぎ破壊したかったのである。アメリカの存立のために原爆を使うことは何ら必要なかった。原爆を使ったのは愚劣・傲慢にして残忍なサディズムに動かされたのである。それ以前から明らかであった日本側の降伏条件を認めさえすれば、日本は原爆を落とされなくても降伏したはずである。アメリカは日本のそのような降伏では満足できなかったというだけのことである。アメリカは日本を徹底的に破壊したくて日本の降伏を遅らせようとしていた。
アメリカ人は原爆投下を、日本が先に真珠湾奇襲という卑劣な騙しうちをしたことに対する報復であるとして、もし日本がそのような卑劣なことをしなかったら原爆投下をしなかったと言いたがっているようであるが、アメリカ大陸の先住民は、イギリスから来た植民者が飢えと寒さで絶滅しかかっているのを助けた。アメリカ人はそのことを忘れたのか、そのあと先住民を大虐殺し、その土地を奪った。このことからも、相手が先にひどいことをしたから、その報復としてこちらもひどいことをすることになったというアメリカ人の正当化は成り立たないことがわかる。
東京裁判は、事後法に基づき勝者が敗者を裁くとんでもない違法行為であり、なぜアメリカが東京裁判を強行したかを問題にすべきである。アメリカ人が自己満足し、日本人の誇りを奪い、侮辱する以外に何の役に立ったのか。
現在の日本のことを考えてみると、敗戦後七十年以上経ったにもかかわらず、いまだにアメリカ軍の占領が続いているのはいかにも異常である。(p.p.194-195)
無意識へと抑圧された「アメリカへの怒り」
日本人の内的自己は、当然のことながら、戦前よりさらにいやまして戦後は、アメリカに対してはらわたが煮えくり返るような怒りを感じているはずであるが、しかし、怒りは外的自己が結んでいる友好的な日米関係を乱すため、深く無意識へと抑圧されている。
深く無意識へと抑圧されたそのような怒りが日本人の精神内で毒素となって、数々の見苦しい不幸な事態と事件を起こしているが(政府は国際関係においてどうすればいいかいつも自信なく迷っている。アメリカの言う通りにすればいいと思っているのか、自分の判断がない。政府や官僚の隠蔽体質、国民の高い自殺率、鬱病の蔓延、ヘイトスピーチ、子をぎゃう対する親、子供のいじめなどは、この事態が招いている症状ではなかろうか)、今の日本人はその真の原因を心のどこかでは薄々と知っているのだが、おおっぴらにはっきりとは知りたがらず、わざわざ見当違いのところに原因を探すので、いくら探しても見つからない。見つかるはずがない。
アメリカに対する怒りを抑圧して服従するのは、このように日本人が日本人であることの誇り、日本人が日本人として存在する価値と意味を失わせ、目先の物質的・金銭的利害など問題にならない軽量不能の大被害を国としての日本にも個人としての日本人にも与えているが、これを日本人はなるべく見まいとしている。
…また、アメリカも日本に恨まれていることを知らないフリしながら知っているので、日本に対する警戒を怠ることなく、アメリカの安全のため日本の占領を続けている。(p.p.108-109)

Saturday, October 17, 2026

岡野守也 『唯識のすすめ』

岡野守也著.(1947- ), Okano Moriya,(1998). 唯識のすすめ : 仏教の深層心理学入門. Nihon hoso shuppan kyokai. 

 二十世紀はどんな時代だったか 

 第一は、近代とは、人類の史上でも最大の戦争を二度もやった時代です。そして使い方次第では人類が絶滅しうるような戦争の道具、核兵器を作った時代だということです。

 …それから第二に、近代、特に二十世紀は、資源の浪費と環境の汚染・破壊という意味で、いわば自分自身の立っている足もと・足場を崩しつつある時代だといっていいと思います。 

 …それから第三点は、近代は、すべてを物質に還元して捉える科学――というより「科学主義」がはびこって、人間の心、精神性、人間が人間として生きていることの意味が見失われつつある時代だといっていいと思います。 …そういう目で人間自身を見ていきますと、人間も結局のところは物の集合体・運動体にすぎないと見えてきます。もちろんただの物には意味がありえません。…意味がないということを突きつめて考えますと、非常に空しくなります。とことん突きつめると自殺したくなったりしかねませんから、ふつうは見つめないで、何となくそういうことは考えないで、とりあえず生きることにしているわけです。

…しかし、人生に意味はないのだけれども、とりあえず自分自身の快感・不快感はありますから、そうなると、「自分の快楽を追及して生きるしかない」という話になりかねません。その場合、根源的に意味がないものには善悪もありえませんから、自分勝手に生きることをとどめるものは、他の人が迷惑だというので止めること以外にはないことになります。そうすると、「迷惑さえかけなければ何をしてもいい」という考え方が一つ出てきます。 もっと突きつめていきますと、「迷惑をかけてもばれなければいい」という考え方にもなりかねません。
もっと進みますと、「たとえばれても自分の方が強くて他者から制裁を受けなければいい」というところまでいってしまいます。 …そういう生き方をみんながしていくと、さまざまなところで社会的に大きな問題が起こってくる。社会的にも精神的にも、深刻な問題が出てくると思います。(p.p.12-15)


分別知とニヒリズム―エゴイズム―快楽主義

日本の庶民は、つい最近まで、神と仏と天とご先祖さまがほぼ同じものだというふうな、漠然とした、しかし根強い世界観を持っていたと思われます。それは、明治維新までは、全国津々浦々、どこに行っても通用する、いわば暗黙の国民的合意だったのではないか、そして、それがみんなが正しく生きることの根拠にもなっており、それは、そうとう程度、最近まで生きていたのではないか、と私は推測しています。
…こうした、一見あいまいのように見えて、実は確かなものだった「より大いなる何ものか」とのつながりの感覚やそれへの畏敬の念、つまり「神仏儒習合」の世界観は、まず明治維新の神仏分離で、弱体化されてしまいますが、それでも戦前まではかなり根強く生きていたと思いますし、それが社会の精神的・倫理的な安定性を支えていたのではないでしょうか(戦前がすべてよかったなどといいたいのではありませんが)。

ところが、戦後、アメリカの民主主義・合理主義的な教育政策によって、公教育と宗教全体も完全に分離されます。そして、公教育の場では、結局のところ、すべてのものは物質主義科学によって説明できる組み合わせにすぎないという結論に至るような知識が、朝から晩まで、子どもの心に注入されていきます。
これは表のプログラムとしては、理性や科学やヒューマニズムを教えているのですが、その裏で、教える側も気づかないうちに、「人間も結局はただのモノであり、だから生きていることには結局意味がないし、人間を超えた神や仏や天などただの神話で、だから生きていることには結局意味がないし、人間を超えた神や仏や天などただの神話で、だから絶対的な善悪もない。だから人間は、自分を大事にして、自分の生きたいように生きるしかない。それは人間の権利だ」という人生観を教えた結果になっているのだと思います。

…しかし人間を超えた「より大いなる何ものか」の存在という絶対の根拠はかんがえられていませんから、ほんの少しずれると「人間はだれだって自分がいちばん大事なのだ。だから、余裕があるときはひとも大事にするが、余裕がないときは大事にできなくてもしかたない」、さらにもう一歩進むと「ひとに迷惑かけなければ、自分がやりたいことは何だってやっていい」という、小市民的なエゴイズムになってしまいますし、さらに一歩誤ると「悪いことをしても、ばれなければいい」、さらに「悪いことをしてばれても、自分に力があって社会的な制裁を受けなければいい」というところまで行ってしまう危険を底に秘めています。

つまり神も仏も存在せず、モノがあるだけの世界は、つきつめると必ず意味がないということになります。それがニヒリズムです。

そして、人間の命もモノの寄り集まりにすぎないのですから、もちろん意味はないのですが、なぜか生きていて、とりあえず自分の気持ちいい悪い、好き嫌い、快不快はありますから、それを追及して生きるしかない、と考ええる。それが快楽主義です。そうしてみても、死んだらすべて終わりで意味ないのですが。

つまり、近代的な理性、科学主義的な世界観には、もちろんプラス面もあったわけですが、そのマイナスの面が徹底的に進むと、必然的にニヒリズム―エゴイズム―快楽主義に陥ってしまうという本質的な限界を持っています。それは、人類が歩みを始めたときからずっとかかえていた分別知の限界なのです。(p.p.394-397)

Wednesday, February 4, 2026

玉城健一 『実話 集団ストーカーに加担する悪党警官の実態』

玉城, 健一, & Tamaki, K. (2024). 実話集団ストーカーに加担する悪党警官の実態 : 真面な人間を精神病者に仕立て上げる方法. Tsumugi shobo.

 私が受けた嫌がらせは、第三者から見るとただの偶然にしか見えず、とても嫌がらせには見えない。彼らが利用した嫌がらせは、専門家の間でガスライティングと呼ばれている手法で、証拠を取るのが難しい方法だった。(p.2)

私が警察官時代に聞いた話では、公安警察の仕事はスパイやテロリストなどの監視が仕事だが、田舎の警察署の公安担当者は、監視対象となる人物が少ない又はいないため、時間を持て余し暇である。そのような場合、監視する必要のない一般市民の中から適当に監視対象を決めて、監視練習(ネットの閲覧履歴、通話履歴、部屋の盗聴、ゴミの持ち去りによる生活パターンの把握と個人情報の入手、尾行などによる行動パターンの把握など)を行うこともあるという。私は、この監視練習となってしまった。このような行為は、本来の監視対象ではない一般市民に行なう行為のため、警察による人権侵害と職権乱用罪になる。
この本を読んでいるあなたは、他人事のように思っているかもしれないが、あなたも監視練習の対象になる可能性は十分にある。
…本書によって、本当の悪党に立ち向かう勇気をもってもらいたいと思う。(p.p.3-4)

この悪党警官は集団ストーカーどもを操り陰険なやり方で私に嫌がらせを仕掛けてきた。彼らは、嘘や誇張した情報を世間に流し、私を悪人に仕立て上げようとした。しかし、本当の悪党は、世間を騙し善人の仮面を被った彼らの方なのだ。最終的に私は彼らを撃退することに成功した。この本にその過程を詳細に記した。忘れないでほしいのは、彼ら悪党どもは、嬉しいことを嬉しいと感じ、悲しいことを悲しいと感じ、怖いことを怖いと感じる、私たちと同じただの人間だということである。本書によってあなたは集団ストーカーに打ち勝つことができるし、警察による監視練習の対象となってしまった時の対抗策も知ることができる。

〇私が行なった集団ストーカー撃退方法は、絶対に他言無用でお願いしたい。貴方が死んであの世に行っても秘密にして欲しいのだ。もし、貴方が約束を破ったら、私は貴方を一生恨みます!。この言葉が、本を使った貴方への脅迫状だと言われても仕方ないと思っている。そして、覚悟がある方だけ、このお話の続きを読んでもらいたい。(第三章 悪党抹殺計画より)
〇日常動作を悪用し相手をノイローゼにする方法
〇真面な人間を精神病者に仕立て上げるには
〇加害者にもかかわらず、被害者になりすまし周囲を誤魔化す方法
〇警察官は聖人君子ではない!悪い奴もいるよ!
〇無知に付け込み市民を脅迫する警察
〇仕返し目的で職権を乱用する悪党警官
〇嘘だろ!警察は納税額で悪党か善人かを決める
〇ど暇警察による市民監視練習の実態
(Amazon.co.jp)

Sunday, August 17, 2025

藍原寛子 『フクシマ、能登、そしてこれから』

 Aihara, H. (2025). フクシマ, 能登, そしてこれから : 震災後を生きる 13人の物語. 婦人之友社.


「風評被害」への異議―あきらめない

今、水戸さんは、国や電力会社、行政が「風評被害」という言葉で市民の言論を封殺しようとしているのでは、と懸念する。18年8月、福島原発の汚染水海洋投棄を議論する経産省の公聴会が郡山市で開かれた。水戸さんは意見発表人として出席、主催者側が会の冒頭で使った「風評被害」という言葉を、「放射能に対する不安や議論を封じ込める言葉だ」と指摘した。(p.93)

「現場に足を運ぶこと」の重要性

福井県の敦賀、美浜の原発が林立する地域を通り、その先々で地元の人から直接、原発の話を聞いた。
興味深いことに、複数の人と一緒に会っても誰も意見を言わない。ところが1人に個別に会って話を聞くと、ボソボソと本音を話しだした。何度か通ううちに、敦賀市の僧侶で反原発運動に携わる立花正寛さんに会う。立花さんは「長い間坊主をやっているけれども、がん患者以外の葬儀はしたことがない」と語った。立花さんは夜、門徒さんたちから話を聞く機会を設けてくれた。すると、彼らは次々に「うちの息子が取られてな」「うちの息子も取られた」と悲しげに語った。「取られた」という意味を尋ねると、「電力会社に息子が殺されたという意味だ」と打ち明ける門徒さんたち。
…さまざまなことを教えてくれた立花さんも、がんのために亡くなった。
(p.p.196-197)

活断層のリスクを軽視しない

北野さんは24年5月の志賀原発廃炉訴訟の口頭弁論で、原告団長として「志賀原発周辺は大きな活断層だらけ。珠洲原発同様、建ててはいけないところに建ててしまった」と活断層評価や避難計画の問題点を指摘した。 
「…能登半島地震で、かなりの人が『もし志賀原発が動いていて事故が起こったら、閉じ込められ、見放されたまま被ばくするかもしれない』と危機感を抱いた。原子力ムラは巨大でしぶとい。でも住民が自分の問題として捉え始めている」。
(p.223)

のと、と、ふくしま、と

珠洲市狼煙町で、発災後、住民が農家のビニールハウスに集まって避難生活を送った地域を訪ねた。
…ビニールハウスで生活した1人の高齢の女性が、私の車の「福島」ナンバーを見つけて、「福島からきたの」と驚いた。
…その女性は、周りに誰もいないのに小声になった。「私はあの時、[珠洲]原発に反対したんですよ。私ら、原発に反対した人たちは、計画が凍結されてからもいっぱい嫌がらせを受けました」。元日の地震直後、この地域も孤立集落になった。(p.p.224-225)