Thursday, July 3, 2025

吉田敏浩『追跡!謎の日米合同委員会』

 Yoshida, T. (2021). 追跡!謎の日米合同委員会 : 別のかたちで継続された「占領政策」. 每日新聞出版.

一九五七年二月一四日付、駐日アメリカ大使館からアメリカ国務省への極秘報告書「在日米軍基地に関する報告」

行政協定のもとでは、新しい基地についての要件を決める権利も、現存する基地を保持し続ける権利も、米軍の判断にゆだねられている。…多数の米国の諜報活動機関と対敵諜報活動機関の数知れぬ要員がなんの妨げも受けず日本中で活動している。
米軍の部隊、装備、家族なども、地元とのいかなる取り決めもなしに、また地元当局の事前情報連絡さえなしに日本への出入りを自由に行う権限が与えられている。(『日米「密約」外交と人民のたたかい』)
(p.130)

CICとは米陸軍の対敵諜報部隊でCounter Intelligence Corpsの略称である。…日米地位協定の刑事裁判権に関する規定「米軍人・軍属の公務中の犯罪はアメリカ側に第一次裁判権がある」に従って…スパイ活動中のCIC員がたとえ車で日本人をはねて殺傷しても、公務中としてアメリカ側に第一次裁判権があるので、日本側当局に逮捕・起訴されることはなく、日本の裁判所で裁かれることはないのである。

アメリカの情報機関NSA(国家安全保障局)の世界的なインターネット監視・盗聴活動を暴露した、元NSA職員エドワード・スノーデンの告発からも、日米の連携が明らかになった。
…二〇一三年四月八日付の秘密文書には、NSAが防衛省情報本部電波部に「エックスキースコア」など、個人のEメールなど非公開情報まで密かに検索できるインターネット大量監視用の「違法監視プログラム」をも提供し、「これらの監視システムを使いこなし、米国の監視網に貢献するサイバー・スパイを防衛省・自衛隊内に養成する」ための講師を派遣すると記されていた。
自衛隊のほかに…「アメリカの情報機関は警察と公安調査庁に別個のルート」を持って、それぞれ連携している。また、「警察、内調、外務省はいずれも米中央情報局(CIA)との情報交換」をおこなっている。
(p.p.139-140) 

************

もく星号遭難事件と米軍の航空管制

一九五二年四月九日、午前七時三四分、日本航空の羽田発大阪経由福岡行き、マーチン202型双発プロペラ機もく星号が、風雨をついて羽田飛行場を飛び立った。しかし、千葉県の館山上空を通過後、離陸から二〇分で行方不明になった。…翌四月一〇日、伊豆大島の三原山噴火口の東側一キロの地に墜落し散乱した機体が発見された。乗組員四名と乗客三三名の全員が死亡していた。
…羽田出発時の米軍管制官の指示は「館山通過後一〇分間高度二〇〇〇フィート」だった。二〇〇〇フィートは約六一〇メートルである。その高度で一〇分も飛べば、海抜七五八メートルの大島三原山に衝突する。もく星号は疑問を呈して問い返した。羽田に駐在するノースウエスト航空の運航係も、この管制指示を傍受していて、その高度では低すぎると抗議した。

…日本政府の事故調査委員会は、米軍にジョンソン基地の航空管制室の録音テープの提出を要請した。しかし米軍は応じず、文書で「六〇〇〇フィートを指示」とだけ回答した。
一方、在日米空軍の機関で航空機と基地の交信を記録する「東京モニター」は、ジョンソン基地からの「館山通過後一〇分間高度二〇〇〇フィート」という指示を傍受していた。だが、米軍側は公式にはあくまでも「六〇〇〇フィートを指示」と押し通した。録音テープの提出を再三の要請にもかかわらず拒み通した。

…そこで注目されるのが、羽田出発時の当初の管制官の指示「館山通過後一〇分間高度二〇〇〇フィート」の背景には、もく星号の飛行予定の方向に、約一〇機の米軍機が飛行中という事情があったことだ。
「もく星」号が羽田を離陸するとき、「東京地区の各飛行場から出発して、同時刻ごろに同じ方向に向かっていた米陸海軍機が十機ほどあった」(『科学朝日』昭和二七年六月号)
(p.p.142-145)

************

民間航空機を追尾し急接近する米軍機

一九九七年九月一二日、小松発札幌行き全日空A320旅客機が青森県の陸奥湾上空を高度約六四〇〇メートルで飛行中、米空軍三沢基地のF16戦闘機二機が後方から急接近してくるのが、全日空機の空中衝突防止装置(TCAS)のレーダーによるコンピューター画面に映り、「降下」を指示する警告音が鳴ったので、急降下して衝突を緊急回避した(「朝日新聞」一九九八年一月四日朝刊)。
…パイロットは「まるで標的機を要撃するように追尾しているように感じた」と報告しています。


一九九八年八月には、日航の広島行の便が高度一万七〇〇〇フィートで飛行中に、厚木から岩国に向かっていた海兵隊の戦闘機が急接近、日航機は急降下して衝突を回避した事例、さらに一九九七年一一月には高知県上空で関西空港に向かっていた日航機に米軍戦闘機が急接近、機長の緊急回避操作で空中衝突を免れた事例など、米軍機の異常接近が相次いで報告されました。

二〇〇七年八月八日にシドニー発成田行きのJALWAYSボーイング747旅客機が、グアム島南方上空を高度一万一六〇〇フィートで飛行中、右後方上空から米空軍F15戦闘機二機に追尾され急接近された事件は、米軍側が国際的な飛行規則に違反したことを認め、異例の謝罪をした珍しいケースである。
(p.p.149-151)

**************

新型コロナウイルスの検疫も米軍まかせ

在日米軍内でも新型コロナウイルスの感染が相次いできたのに、日本政府は米軍関係者(軍人・軍属・それらの家族)の入国禁止措置をとれず、基地から入国する際の検疫も、感染防止策も米軍まかせで、まったく手出しできないのである。
米軍関係者は日米地位協定にもとづき、基地を通じて自由に出入国でき、日本の出入国管理に服さなくてもいいからだ。
(p.172)

Saturday, June 28, 2025

有馬哲夫 『一次資料で正す現代史のフェイク』

 東条、そして日本の考えていた戦争は、いわゆる限定戦争だった。ルーズヴェルトはこれを、相手が無条件降伏を呑むまで殺戮し、破壊し続ける無制限戦争に[途中から〕変えてしまった。これによって和平のハードルを高くしてしまった。
(p.p.40-41)
一方、アメリカ諜報機関とりわけ戦略情報機関(OSS)スイス支局などが、天皇制存置さえ認めれば、ソ連の仲介なしでも、日本が降伏することを[ルーズヴェルトの無条件降伏原則を引き継いだ]トルーマンに報告していた。
これを踏まえて、五月二八日、国務長官ジョセフ・グルーは、天皇制を含め日本人に彼らの自由意志によって政体を選ぶ権利を認める降伏勧告を日本に対して出すよう求めた。
(p.p.42-43)
…[トルーマンは〕四五年四月二四日に[陸軍長官〕スティムソンから原爆が八月頃完成予定だと報告を受けていた。これによってトルーマンは日本本土上陸作戦を回避するために条件付降伏を日本に認めることで早期和平を図るよう求めてくるアメリカ軍関係者のプレッシャーに耐えることができた。…さらに、ポーランド問題でソ連と決裂していたので、ソ連にこれ以上協定違反をしないよう警告するためにも原爆を使用したいと願っていた。
天皇制存置条件付降伏支持者のスティムソンさえ、原爆の使用には積極的だった。およそ十九億五〇〇〇万ドルの巨額の予算を使って開発しただけに、使用しなければ開発責任者として責任を問われると思ったのだった。こうして、ポツダム宣言から、天皇制存置条項が削除された。これを残せば、日本は宣言が出るやいなや降伏してしまい、原爆を使用する機会が失われるからだ。
(p.p.44-45)

トルーマンは原爆で真珠湾攻撃の罰を与えたかった

[トルーマン大統領は]上院議員時代から「パールハーバーの騙し討ちをした日本を懲罰すべし」と公言していた。加えて、四月二三日にソ連外務委員長ヴャチェスラフ・モロトフとポーランド問題に関する協定違反のことで言い合いになってからは、ヨーロッパで勢力拡大をはかるソ連を威嚇するため原爆の威力を見せつける必要があるという考えを持ち始めていた。
(p.p.92-93)

スティムソンも自著『平和と戦争に力を尽くして』でこう述べている。

アメリカが天皇の地位についての見解を明確に示すのを遅らせたことが戦争を長引かせたということだ。
(p.107)

Friday, June 20, 2025

中西董『米英軍占領下の名古屋』


 日本人が進駐軍の命令に違反した場合の罰則に、死刑または銃殺刑などの極刑が盛り込まれていた…。
その注目すべき実例を次にいくつか列挙してみよう。先ず第一に「日本人は米国を尊敬すべし。日本人の車馬は米軍を追い越すべからず。違反者は射殺する事あるべし --進駐軍--」…また前文と同じような「===進駐軍命令===日本人の車馬は、米軍ジープや軍用車両の前方を通行したり、追い越すことを厳禁する。又、交差点付近で停止する場合は、必ず米軍の車両10フィート後方に下がって止まれ。違反者は射殺することあるべし。---連合軍最高司令官---」と言ったような何れも米軍の軍事行動に少しでも妨害したと見なされるようなささいな交通違反にまで極刑が科されていた。
(p.54)

そのほか最も象徴的な進駐軍の命令に報道管制のプレスコードの発動が挙げられる。…「連合国軍に対し破壊的なる批判を加へ又は同軍に対し不信若しくは怨恨を招来するが如き事項を掲載するべからず」と定められていた。(p.55)

連合国軍が7年近い日本占領期間中に、日本国内において主に米英軍将兵の不法行為によって、実に1万人にも達する多数の罪のない日本人が無残にも虫けらのように射殺されたり、また死亡には至らなかったものの身体に何らかの大きな傷害を受けたりしている。

連合国軍の日本占領期間中における不祥事件は、新聞やラジオなどのマスコミも米軍の厳重な報道規制や検閲を受けて、日本人にほとんど公表することが禁止されていた…。

昭和20年6月26日の早朝、名古屋市熱田区六野町にあった‥大同製鋼の男性職員が事務連絡で同所を訪れたところ、この工場に進駐したばかりの米軍黒人兵に、いきなり背後から頭部と腹部を自動小銃で撃たれて虫けらを殺すように無残にもその場で射殺された。この事件は、日本人の目撃者もあり犯人も分かっていたのに、実情を調査した米軍憲兵隊は、「米軍に該当する犯人(または容疑者)は存在しない」の一言で、うやむやにされてしまった。

またこの日の午後にも‥たまたま港区の港北運河を米軍が通過した際に、…食糧不足を補うため運河べりの草むらに身を潜めて魚釣りをしていた男性が軍用トラックの上から米兵に頭部を自動小銃で狙撃されて射殺された。
さらに同じ日の夕刻、…中川橋の上を上陸用戦車(舟艇)に乗って通過していた米兵が、家を空襲で焼かれ停泊中の艀で船上生活をしていた母子の二人を鳥でも狙うように撃ち殺して海中に転落させた。

それから数日経過した11月初旬の深夜には、名古屋市営路面電車の車庫になっていた港車庫構内の一番奥に停車していた修理中の電車の中で、一人の婦人が暴行された挙句に心臓をピストルで撃たれて全裸に近い姿で死んでいた。…犯行現場の車内には進駐軍の洋モク(米国製たばこ)の吸い殻や米国製ウイスキーの空きびんが散乱していた。…米第25師団兵士の中の不良分子の仕業による犯行であることは疑う余地もなかった。

特に米第25師団の本隊が名古屋に上陸してから10日間位経過した頃から、婦女子への暴行事件が続発するようになった。…ことに夜の一人歩きの女性や娼婦風の女性が基地内に連れ込まれて夜通し大勢の米兵に輪姦された挙句、朝方になって無残にも軍用ナイフで刺し殺されたり、また銃殺されたりした。その上、犯行を隠すために遺体は、基地の北側を流れている横運河に投げ捨てられていたこともあった。…運河の中から引き揚げられた遺体は、米軍の犯行と分かっていても大抵の場合は、「生活苦による入水自殺」として片づけられてしまった。(p.p.245-246)

ことに戦後の2、3年間は、名古屋港内をはじめ名古屋市内を流れる庄内川や中川運河などの河川で、若い女性の水死体がよく発見された。それらの遺体の大半は、詳しく検死したり、死亡解剖するまでもなく、一目して明らかに強姦された後に殺されて捨てられた事が歴然としている遺体も多かったのである。しかも、その犯人のほとんどが米軍兵士であった。死人に口なしの例えのように、日本の警察も米軍の犯行とわかって米憲兵隊に通報しても、返ってくる言葉はいつも決って判を押したように調査をしたが「米軍に該当する犯人(容疑者)は存在しない。恐らく〔生活苦による入水自殺〕と考えられる」の一言で簡単に処理されてしまったのである。文字通り、やりたい放題の治外法権であった。

昭和21年の五月上旬には、名古屋に短期間進駐した英連邦軍の印度兵に農夫が自動小銃で近距離から撃たれて重傷を負っている。また三菱航空機製作所大江工場では、昭和20年11月頃に約2000名以上の米軍兵士が進駐していたことがある。ここでは、日本人のコックや雑役労務者たちが大量に採用されていて、彼ら米兵たちの食堂や洗濯場で働いていた。米兵たちは、これらの日本人労務者の働きぶりが気にいらないと、すぐ殴る蹴るの暴行を加えていた。殴られた場所が急所であったような場合は、内臓破裂などの症状を起こして死亡する事件も発生した。

筆者の父(戦後、強制的に愛知県の通訳官をさせられていたが米軍の軍事異動命令を受けて昭和21年10月に神奈川県の通訳に転任になった)も、米第八軍横浜軍用図書館に勤務していた昭和26年9月に、勤務を終って単身赴任していた鶴見区生麦町の下宿に帰る途中の夜道で3人組の米軍兵士に集団で襲われた。殴る蹴るの暴行を受けて半殺しの状態になり、所持していた月給も全部奪われた。意識不明で倒れていた所を別の米兵に発見されて米軍の病院に収容された。しかし、この時、顔面と腹部に受けた強烈なパンチの傷害が原因で肋骨損傷、眼底出血と腸内出血の被害を受けた。そのため休職して名古屋に戻り治療に専念したが、病状は回復することなく次第に悪化し、ついに4カ月後の翌27年1月に他界してしまった。
…米陸軍長官宛にも協力要請の嘆願書を出してみたが、敗戦国民の訴えなんか無視されて、何の連絡もなくナシのつぶてであった。そのため父が入院していた米軍病院の証明書が提出できず、ついに一銭の補償金や見舞金も支給されず、文字通り殺され損となったまま今日に至っている。これが父の青春時代のすべてを費やして、明治から大正時代にかけて自由社会の米国に憧れ、はるばる太平洋を船で渡り皿洗い生活などを続けながら学資を稼いで十数年間も米国各地で留学生活をしていた国の軍隊行動であったのかと思うと強い憤りを感じた。しかも日本の敗戦で無理やり米軍に命令されて通訳官にさせられた父が、本業を捨てて微力ながらも自分自身では日米両国の懸け橋になるつもりで、懸命に努力を続けてきた甲斐もなく不慮の死を遂げてしまった。
(pp..247-248)

米英軍将兵が引き起こした数々の暴行事件や悪質な不法行為も戦後史の中に記述されておらず、すべて欠落している…これはその当時、政府機関をはじめ各地方公共機関が編纂した各種の行政年報や報告書等でも明確に実証されている。…進駐軍の厳しい言論の検閲を怖れた結果、占領軍の不法行為に関する実態の記述については、すべて‥自ら削除してしまったからである。(p.255)

占領軍は…昭和20年12月に米軍の占領政策を日本人や特に日本のマスコミが批判することを厳禁してしまったのである。
…特に米軍は進駐当初、人類史上最大の悲劇をもたらした広島、長崎の原子爆弾の被害に関する報道は、日本人の大きな憎しみと反感を買うのを恐れて、米軍が公表する場合を除いて絶対に記事にする事を禁止し厳重な報道規制を実施した。またB29の空襲で被害を受けた名古屋の詳細な人的被害の実態調査や報道も厳禁してしまった。そのため戦時中に190回あまり(米軍極秘統計報告書に拠る)にわたり爆撃された名古屋大空襲の正確な戦争被害は確認されないままになっている。
(p.259)

****************
昭和21年8月3日に岐阜県の陸軍各務原航空隊に進駐していた米第25師団第27連隊の下士官が、空襲で焼失した名古屋城に現われ、金鯱の鱗が溶けて固まった推定300グラム(米軍側の判断)の残骸を接収した…。米軍が押収した金鯱の数量は、秤で正確に計量することも許されなかった。実際には推定の300グラムよりも、はるかに多い2倍以上の分量の金塊であったようだ。当時、名古屋に駐留していた米極東第5空軍司令部内の将校たちの間では、押収された金鯱の溶解した残骸のすべては、小牧飛行場(現・名古屋空港)から直接アメリカ本国へ戦利品として空輸された話題でもちきりであった。

…このようにして各地から集められた日本の貴重な文化財の山は、普通の価値しかない昭和軍刀などと一緒にされて、名古屋港の埠頭桟橋倉庫に運び込まれた。ここで更に選定仕分けされて、上物と思われる逸品だけを米統合参謀本部や米国防総省へ戦利品として空輸されたり、また米軍の高級将校用の土産品として、入港してくる艦船で次々に米国へ送り届けられた。更にその他の普通の軍刀やサーベル、日章旗などは、下級兵士達が本国に帰還する際に、戦利品や記念品として大きな雑嚢袋に入れて持ち帰ってしまったのである。このように敗戦後の日本から持ち去られた貴重な文化財や美術品の中には、その後アメリカのボストン美術館やイギリスの大英博物館などの米英諸国に密かに持ち込まれた収蔵品もあり、その数は相当の量にのぼっていることは、美術専門家や学者の間で周知の事実となっている。しかもこれらの美術品の秘蔵については、今日ではご丁寧にも明治初年の神仏分離令によって起きた廃仏毀釈運動で、日本の庶民が二束三文の安値で手放したものを収集したというまことしやかな理由や説明までつけられている有様だ。
(p.p.134-135)

名古屋周辺地区では、戦災を免れたり野積みにされたままの軍需物資が未だ大量に残されていた。また田舎に工場を疎開したために、機械をはじめ原材料とも無傷のまま終戦を迎えた軍需工場も多数存在していた。

戦後米軍の指示により、これらの軍需工場や陸軍造兵廠等から没収された軍需物資の内訳は、ジュラルミン版、アルミのインゴット、鉄鋼、ゴム靴、合板、玄米、大麦、板ガラス、綿布、紡績機、各種工作機械、旋盤、軍用トラック、硫安、セメント、鉄道用レール等の多品種に及んでいた。その何れの物資も焼け野原と化した敗戦国の日本では、再建のため喉から手が出るほど欲しい必需品ばかりであった。だが米軍は無情にも、これらの物資を連合国の現物賠償物資に指定し、日本人の民需用に転換して平和利用することを一切禁止してしまったのである。ことに陸軍の熱田造兵廠には、武器弾薬の他に何故か大量の古米や大麦なども備蓄していた。言うまでもなく日本人の主食になっていた米や麦は武器ではないのに、すべて賠償物資として没収されてしまったのである。

このように名古屋を中心とした東海地方から米軍に強奪没収された大量の残存必需物資や文化財等は、名古屋港の中央埠頭桟橋へ続々と集められた。これらの物資の中で利用価値の高いものは、真っ先に米国に搬出された。また、その他の物資は、主に米国と作戦行動を共にして対日戦を戦ってきた中国、フィリピン、オーストラリアなどの各国へ現物賠償物資として毎日のように船積みされて海外に大流出したのである。

…それを国民の復興のための民需に再利用することができれば、あれほど戦後に市民が物資の不足で困窮しなくても自立し再建することができたはずである。
(p.p.135-136)

米軍は占領初期の頃の日本を密かに食糧攻めにして、容易に立ちあ上がれない様にしておく事を重要な占領政策にしていた…。そのため窮乏していた日本の主要食糧の米や麦は、昭和20年度産の米作が悪天候による不作を理由にして、米軍の厳しい指示により日本国民の主食の配給量を極限に近いところまで減らしたり欠配させていたのである。

師団長モラン(C.I.Mullins)少将
「連合国軍の日本占領を成功させる手段としては、先ず日本人の食糧不足を利用して、当面は食糧を封鎖して日本人の抵抗意識を防止することを第一目標にする。…次に…徐々に米国の余剰農産物を活用して無償援助または有償援助を実施して、日本人に恩義を感じさせる。それまでは、たとえ日本農業の米麦が増産されたとしても、配給量を絶対に増加する許可を日本政府に与えてはならない」(p.p.136-137)


また悪辣な米兵たちは、日本側の説明で命令事項が期日までに履行できないことが分かるとその延期を認める代償として暗に女(占領軍慰安婦)を無償提供したり、土産やプレゼントの賄賂を要求することも日常茶飯のように行われた。こんな狡猾な軍政が繰り返されるたびに進駐軍の絶大な権力に恐れをなした官公庁や商社の幹部は、ただ彼らの命令に言うなりに従うより仕方がなかった。それに味をしめた一部の米軍将兵は、ますますエスカレートして事あるたびに無理難題を押しつけるようになった。

ことに米極東第5空軍司令部の中堅クラス以上の一部の軍政将校の中には、暇さえあれば連日のように日本側の弱みにつけ込んで命令の履行状況や市民生活のあらゆる面に難癖をつけて、その見返りとしてパーティーを開かせたり芸妓を抱かせることを強要した。しかもそれだけでは物足らず、彼らは事あるたびに日本の美術工芸品や高級和服絹製品などを盛んに無償で調達するように命じた。
(p.191)

森良雄『日本刀受難記』

東京: 創栄出版 星雲社(発売); 1998.


占領軍の本土進駐以来、占領軍兵士による暴行略奪が各地で多発しました。九月七日の朝日新聞によれば、神奈川県下では米兵が横須賀に上陸した八月三十日から九月五日までのわずか七日間に、九百八十六件の事件が発生したことを日別・種類別に分けて伝えています。参考までに強盗まがいの事案について見てみますと、

…物品強奪      百四十三件

 自動車強奪     百二十八件…

 警官からの帯剣強奪 四十一件

 金銭強奪      三十七件

となっていて、占領軍司令部に事故防止を申し入れたところM・P(憲兵)を要所要所に配置して秩序維持を強化してくれた、と報じています。(p.p.113-114)

 

しかし、地方では、東京地区同様に保護指令が出されたはずですが、これが守られず、旧家や社寺の宝物とされていた刀剣類が占領軍兵士によって略奪されるという事件が発生しています。(p.116)


…日本近代郷土史研究所理事長の中西董氏には「米軍占領下の名古屋」と題した著書があります。…同所の第10章「戦利品や賠償物資の海外代流出」には刀剣接収時の模様が生々しく描かれています…。


米軍は名古屋進駐三日目にして…「資産階級の家庭には通訳を同伴してジープで直接乗り付けて家宅捜査を実施した…相次ぐ空襲で焼き出されて裸同然になり、ほとんど何も残っていなかった」名古屋を離れて、「戦災の被害が少なかった地方都市に目をつけ、関、大垣、米原、津、宇治山田、岐阜、高山、各務原、瀬戸方面まで足を伸ばして戦利品の宝探しを始め…先祖代々から伝わる…刀剣類を…一枚の受領証も交付せずに持ち去られてしまった。


…(米軍の)特捜隊は、戦時中に熱田神宮本殿の裏側に極秘で構築された堅牢な地下室の宝物収蔵庫を厳重に立入り捜査した。そして奉納されていた軍刀のすべてを没収した。その数は約百五十本余りもあり、米軍トラックに積み込まれ」さらに「ご神体である草薙剣をはじめ、その他の由緒ある古代刀なども武装解除の対象物件として強引に接収しようとした」…。


日本側は通訳(中西氏の父君)を介して日本の歴史や伝統を引用しつつ、草薙の剣は「日本人の文化と伝統のシンボルとなっている貴重な最高の歴史的文化遺産」であることを説明し、「もし米軍が三種の神器の一つである草薙剣を没収すれば、日本国民はもう黙ってはいない。恐らく日本各地でゲリラ戦や大暴動が発生し、再び日米双方でおびただしい数の死傷者が出る事は確実である」と主張します。結局神社側は「奉納された刀剣類の中から、金色の装飾がほどこされた大型の太刀を適当に選んで草薙剣のレプリカと偽って、唐織りで作られた豪華な雲龍模様の太刀袋に入れて米軍に提出」します。ところが、これを見た米軍兵士たちはますます本物を欲しがって「地下室まで入り込んで徹底的に捜査を実施した。その結果、むしろに包んで隠してあった年代物の刀剣類を見つけて、その中から宮司や通訳らが制止するのも聞き入れず、刀の柄や鞘の装飾が華麗に施された外人好みのする太刀ばかり、数本を選んで大量の軍刀と共に持ち去ってしまった。」

(p.p.116-118)


略奪であったにせよ、神宮の任意提出であったにせよ、神宮保有の刀剣が戦前に比べて激減していることは確かです。(p.119)

Thursday, June 12, 2025

木元寛明『気象と戦術』

 Kimoto, H. (2019). 気象と戦術 : 天候は勝敗を左右し、歴史を変える. SBクリエイティブ.

気象という名の「兵器」


「テロリストたちは、電磁波遠隔操作により気象を変更し、地震を誘発させ、火山を噴火させるという手段で、エコタイプのテロリズムにすら手をつけている」
 ――米国防長官ウィリアム・コ―ヘンの「テロリズム、大量破壊兵器、および合衆国の戦略」に関する会議での講演
  (1997年4月28日、ジョージア大学)


目的達成のための気象・自然の軍事利用
気象・自然を「兵器」として使用する

1967年から1972年まで、米空軍気象局は、地域一帯を水浸しにしてホーチミン・ルートを泥寧化し、人や物資の移動を妨げようとしました。そのため、3機の改造型WC-130輸送機からヨウ化銀などのフレアを散布して雲の種をまき、ラオスおよびカンボジアに人工雨を降らせる作戦を行っています。
(p.150)


気象、地震、火山をコントロールする?
あながち荒唐無稽ともいえない

欧米の多くの国は第2次大戦の終了直後から、気象を変更する(=操作する)技術の実験をスタートしています。…冒頭のコ―ヘン国防長官の発言のように、気象の変更、人為的な地震の誘発、火山の噴火などが兵器として使用されるという推論は、あながち荒唐無稽ともいえないようです。(p.155)

吉田敏浩 『横田空域』

Yoshida, T. (2019). 横田空域 : 日米合同委員会でつくられた空の壁 (Saihan). 株式会社Kadokawa.

 米軍の活動を規制できるドイツとイタリア


根本的な相違点として沖縄県の「他国地位協定調査中間報告書」があげるのは、ドイツもイタリアも、「自国の法律や規制を米軍にも適用させることで自国の主権を確立させ、米軍の活動をコントロールしている」点である。

…「横田空域」と「岩国空域」での航空管制を日本政府は米軍に「事実上、委任」している。国内法である航空法には、外国軍隊に航空管制を委任できる規定はない。…密約が国内法を超越していることになる。


Wednesday, February 19, 2025

森永卓郎,et al 『日航123便はなぜ墜落したのか』

 Morinaga Takurō;Aoyama Tōko;Maeyama Midori, Morinaga, Takurō., Aoyama, T., & Maeyama, M. (2024). マンガ誰も書かない「真実」日航123便はなぜ墜落したのか. 宝島社.

日航123便の墜落からわずか41日後の1985年9月23日、先進五ヶ国の大蔵大臣、中央銀行総裁は、ニューヨークのプラザホテルに集結し、過度のドル高を是正するために為替市場に協調介入する声明を発表した。「プラザ合意」である。
…1985年に42兆円だった日本の輸出総額は、86年に35兆円、87年には33兆円と急減。
…当然、ドル安になったアメリカは逆に、国際競争力を取り戻す流れをつかんだ。(p.p.128-129)

…1986年9月2日、123便墜落の約1年後には、もう一つ、日本には明らかに不利な政策が決定された。日米半導体協定の締結である。…要するに、「アメリカに市場を開けろ。そちらの価格はアメリカが決める」という要求を日本は、なぜか呑んだのである。
1980年代半ば以降、日本の半導体産業は世界シェアの50%を占め、NEC、東芝、日立製作所と、日本企業がトップスリーを独占していた。
…日米半導体協定には「秘密書簡(サイドレター)」が存在。…日本市場で外国製品のシェアを5年以内に20%にするとの合意があった。これはGATTの協定に明確に違反する。(p.p.130-131)

オレンジ色の飛翔体
「赤い楕円」が機体の胴体腹部に付着しているように見えた、との目撃証言も。
(p.142)
現場から退去した米軍ヘリ
21時頃に到着。近くに乗組員を降ろすことは可能だった…。
(p.145)
遺物から見つかった「ベンゼン」
現場の炭化遺体の様子は、ベトナム戦争時にナパーム弾の犠牲となった人の遺体に酷似。ナパーム弾の燃料には、パーム油やゲル状にしたガソリンが含まれる。
(p.146)

[日航123便墜落当日]

19時15分 上野村住民の証言
19時半前後からヘリを多数目撃

20時30分 アントヌーチ氏証言
米軍海兵隊の救援ヘリが地上の様子を偵察するために降下中であることを視認

20時40分 落合証言
上空にヘリコプターの音、手を振る。しかしヘリコプターは爆音とともに遠く去って行った。
(p.p.153-155)