Saturday, March 30, 2019

青山透子『日航123便墜落の新事実』

Aoyama, T. (2017). Nikkō hyakunijūsanbin tsuiraku no shinjijitsu: Mokugeki shōgen kara shinsō ni semaru. Tōkyō: Kawadeshobōshinsha. 

‥乗客[の家族]に詰め寄られた町田直副社長(運輸省からの天下りで元運輸事務次官)は、思わず「北朝鮮からのミサイルに撃たれたのだ」と叫ぶ。その数日後、町田氏は社長候補だったにもかかわらず『遺体安置所にて扇子で仰ぐ姿』を写真に撮られて失脚する。

 緊急放送が続々と流れ、テレビや新幹線内にニューステロップで事故が報道された。その中には多くの人々が驚いた緊急報道があった。それは『自衛隊員二名が射殺された模様』というものだったが、その数分後『先ほどのニュースは誤報でした』という内容だった。具体的には二十時頃、『ただ今現地救助に向かった自衛隊員数名が何者かに銃撃され、死者負傷者が多数出た模様です。情報が入り次第お伝えします』であったと記憶する。なおこのニュースは二〇一〇年まで動画投稿サイトで流れていたが、今は削除されている。(p.p.71-72)


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…実際に取材の過程において、第一空挺団は十二日、十八時四十分[*日航123便墜落時刻十八時五十六分より前]に災害派遣待機命令が出ていた、という証言もある。私の公式ブログを見て、前著の出版社に来られた元自衛官も同様の話をしていた。大型ヘリのバートルのエンジンがかかった状態で待機、隊員はすぐ乗り込み離陸する予定だったが、その数十分後に翌朝まで待機と命令が変更になって、無理やりエンジンを切らされたという。(p.136)

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 川村一男氏といえば、群馬県警察本部長で日航機事故対策本部長を務め…捜査の指揮を執った方である。‥この河村氏は警察を退職し、再就職して大阪に行き、その後神戸に住まいを構えた。その再就職先から[遺族の]吉備さんに電話がかかってきたという。その内容は……。
「‥私を監視するためにわざわざ大阪に来たんやっていうてね。ずっと見ているぞっていう感じの話しぶりでした。…」

…再就職したとはいえ監視をほのめかすとはどういうことか。まず、監視そのものが通常では考えられない行為である。(p.87)


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[山下徳夫運輸大臣(当時)は]私が話すことを、さもありなん、という顔で聞いてくださったことはとても不思議だった。‥大臣という地位にあっても、すべてを正確に把握できる環境になかったのかもしれない、そう強く感じたのは、山下氏の別れ際の一言だった。
「あのね、日本はなんでもアメリカの言いなりだからね。遺族が再調査を望むのであれば、ぜひすべきだと思う」(p.99)


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[遺体の炭化と墜落現場のガソリンとタールの異臭、火炎放射器に関する話を]元自衛官にしたところ「核心に近づくと妨害や脅迫が増えてくるから気を付けたほうがよい」という丁寧なアドバイスまで頂いたが、逆に核心はこちらだ、ということを暗示されたようなものだった。(p.158)

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アントヌッチ元中尉証言:「米海兵隊の救援ヘリが二十時五十分に地上の様子を偵察するために降下中なのを視認した。」(p.31)

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  [福島第一原発で]毎日新たに約400トンもの汚染水が汲み上げられて1000基以上のタンクに保管されていくとのことだ。‥」「フランジ型」と呼ばれる大量のタンクはすでに老朽化し始め、汚染水が漏れ出ている。今度はこの古いタンクの解体作業が始まる。一日約六千人の作業員が毎時300マイクロシーベルト(3号機周辺)という職場で働いている。このツケを私たちの子孫に渡し続けなければならないのである。
 それでもなお、原発事故はなかったことと思い込みたい人々や、現政権を支持して再稼働を願う人がいるのはなぜだろうか。これは、人間にとって最も大切な共感力が欠落しているとしか思えない。(p.p.173-174)

Tuesday, March 26, 2019

奈良女子大学文学部なら学プロジェクト編『大学的奈良ガイド』

Nara Joshi Daigaku Bungakubu. (2009). Daigakuteki nara gaido: Kodawari no arukikata. Kyōto: Shōwadō. 

 敗戦直後の日本に連合軍兵士が進駐することになったとき、日本政府や国民が抱いた大きな不安は、女性たちが犯される、ということであった。…一九四五年八月一八日に内務省警保局から各府県長官に無電された通達は、一部の日本人女性を進駐軍相手に働かせる特殊慰安婦施設の設置を促すものだった。‥こうした動きを受け、進駐軍向けの慰安婦施設が各地に設けられていった。‥[八月二九日以降には]国家的緊急事業の一環として進駐軍向け慰安婦施設で働く女性を募集する立て看板や新聞広告がだされていく。(p.254)

‥連合国軍総司令部(GHQ)は一九四六年一月二一日、公娼制度廃止に関する覚書を発令する。‥ただし、生活の糧を得るため個人が自発的に売淫行為を行うことを禁止するものではなかった点に注目したい。(p.255)


 現在の奈良教育大学キャンパス一帯、鴻ノ池運動公園、航空自衛隊幹部候補生学校、積水化学工業奈良工場のあたりを中心に、敗戦直後、奈良進駐軍の兵営(キャンプ地)が複数つくられた。そして、奈良に進駐する兵士向けの特殊慰安婦施設が、一九四五年一一月一日、新温泉ホテルや、あやめ池新温泉に設置される。(p.256)

「奈良市内では米軍兵士の争奪に火花を散らし付近は人肉の市となり、パンパン宿が市内に百三十六件もありなんの恥じらいもなく平然と性の営みをやっている。」[「大和タイムス一九五二年九月四日の記事。](p.259)

‥売春婦やポン引きの横行、兵士と売春婦の大胆な振舞いがエスカレートするにつれ、[米軍専用娯楽]センター周辺の児童・生徒への影響が懸念されたことは言うまでもない。センター付近の校庭に使用済み衛生用具が放置されたり、児童が「パンパンごっこ」をして遊んだり、青少年の非行・犯罪や売春が増加するなど、事態を憂慮した奈良市中学校長会代表らは市長に対し、センターの移転・廃止を要望、もしこれが困難な場合は、早急に何らかの風紀取り締まりを行うよう陳情した。(p.260)

Saturday, March 2, 2019

吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』

Yoshida, M. (2002). Nihon no koto wa naze kūshū o manugaretaka.

[History of Mass Mindcontrol with Stockholm Syndrome]


 古都に空襲がなかったのは、その文化財を保護するためにアメリカ軍が爆撃を控えていたからであり、そのことを進言した“古都の恩人”はウォーナー博士であるという、≪ウォ―ナー伝説≫は全く事実無根であった。(p.209)


 米軍による爆撃によって焼失した日本の文化財は、国宝二九三件、史蹟名勝天然記念物四四件、重要美術品一四三件であり、合計四七一件もが灰になったという。(p.66) …都市地域を攻撃する際の米軍がとった戦法は、おもに精密爆撃とジェノサイド(genocide 大量虐殺の意)爆撃という二つに区分することができる。
…第二・第三期の都市爆撃で主要な戦法としてとられたこの焼夷弾爆撃は、住宅密集地域への無差別爆撃であり、民間人の皆殺しをも企図したものであった。まさにジェノサイド爆撃と呼ぶにふさわしい、すさまじい空爆となったのである。(p.p.103-104))



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 "原爆の攻撃目標[*京都・広島・新潟など]はワシントンからの秘密指令によって他のいかなる形式の攻撃からも一切除外されていて、原爆の使用に対する効果だけを得られるほとんど無傷の地域であった"〔USSBS, Final Report No.66 : The Strategic Air Operation of Very Heavy Bombardment in the War against Japan, 1946〕(p.97)


 京都の場合、[現・鉄道博物館付近の]梅小路機関車庫がその照準点とされていたのである。[*目標が視認しやすく、また原爆の爆風を京都市の住宅密集地域の隅々に行き渡らせ、できるだけ多数の京都市民を殺害するため]…もしここに原爆が投下された場合、六〇万人もの死傷者の出ることが推計されている。(p.94)


 [*昭和二〇年八月二四日に予定された]三発目の原爆は投下される寸前まできていた。…[*パンプキン爆弾と呼ばれる原爆と同重量の通常炸薬爆弾で]京都への投下練習が着々と積み重ねられていた。このような状態で戦争が終結した結果、京都は爆撃禁止の状態におかれつづけたため、結果として、本格的な空襲がないという結果を生み出したのが真相だったのである。(p.205)


〈マンハッタン計画〉の総指揮官グローブズはその回顧録で次のように書いている。
“…もし、われわれが京都を原爆目標として勧告していなかったならば…[*原爆の代わりに通常爆撃によって]戦争が終わるまでには、全滅しないまでもかならずや、さんざんな損害を受けていただろうということはいえるだろう。”


…大都市の爆撃では二〇〇~三〇〇機のB29が一時間以上もかけて爆撃をする。その場合、あとから来たB29にとって、目標とされた地域がすでに先行機の爆撃で火の海となっていることはよくあることである。その際、火の海に爆弾を棄ててもしかたがないので、そのB29は、帰路において適当と思われる目標物を見出して投弾するか、また、文字どおり爆弾を棄てたりするのである。


 京都に関して…〈爆撃禁止命令〉‥の期間にあった六月二六日の西陣出水に対する爆撃は、B29一機が一トン爆弾七発を投下したものだが、これは当日の名古屋地方への爆撃の[*余った爆弾を棄てるための]付随的爆撃であると考えられる。(p.p.110-112)
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 モニカ・ブラウが著した『検閲』という書物は…次のように記している。
 “日本人のあいだでの情報のやりとりを統制、監視する付加的な手段として、アメリカの宣伝をはかる特別の一局が設けられた。これは「民間情報教育局」(CIE)とよばれた。この機関は、「日本人の思考を改造…する」ために、日本の新聞、ラジオ、学校、教会、およびあらゆる種類の組織を活用することをめざしていた”
 また、CIEは教育映画を無料で配給して、学校・公民館・PTA・青年会・労働組合・農業協同組合などで上映させた。そのために、一六ミリ映写機も無料で貸し出された。


 CIEの前身は、太平洋戦争において「ラッカサン・ニュース」などで活躍した米軍の〈心理作戦課〉であった。…つまり対日心理作戦の専門部隊であった。そして、CIEの局長であるダイク准将も、《ウォーナー伝説》の創作者ヘンダーソン中佐も、共に対日心理作戦に従事した専門家だったのである。

 つまり、CCD[*民間検閲支援隊]が検閲を通して、原爆報道などアメリカの悪いイメージの流布を阻止することを任務としていたのに対して、CIEの任務は宣伝によって、日本軍国主義の批判やアメリカのよいイメージの普及をはかることにあったのである。(p.p.227-229)
原爆投下の真実 「第一目標 京都、19発投下」 予定であった。