日本人が進駐軍の命令に違反した場合の罰則に、死刑または銃殺刑などの極刑が盛り込まれていた…。
その注目すべき実例を次にいくつか列挙してみよう。先ず第一に「日本人は米国を尊敬すべし。日本人の車馬は米軍を追い越すべからず。違反者は射殺する事あるべし --進駐軍--」…また前文と同じような「===進駐軍命令===日本人の車馬は、米軍ジープや軍用車両の前方を通行したり、追い越すことを厳禁する。又、交差点付近で停止する場合は、必ず米軍の車両10フィート後方に下がって止まれ。違反者は射殺することあるべし。---連合軍最高司令官---」と言ったような何れも米軍の軍事行動に少しでも妨害したと見なされるようなささいな交通違反にまで極刑が科されていた。
(p.54)
そのほか最も象徴的な進駐軍の命令に報道管制のプレスコードの発動が挙げられる。…「連合国軍に対し破壊的なる批判を加へ又は同軍に対し不信若しくは怨恨を招来するが如き事項を掲載するべからず」と定められていた。(p.55)
連合国軍が7年近い日本占領期間中に、日本国内において主に米英軍将兵の不法行為によって、実に1万人にも達する多数の罪のない日本人が無残にも虫けらのように射殺されたり、また死亡には至らなかったものの身体に何らかの大きな傷害を受けたりしている。
連合国軍の日本占領期間中における不祥事件は、新聞やラジオなどのマスコミも米軍の厳重な報道規制や検閲を受けて、日本人にほとんど公表することが禁止されていた…。
昭和20年6月26日の早朝、名古屋市熱田区六野町にあった‥大同製鋼の男性職員が事務連絡で同所を訪れたところ、この工場に進駐したばかりの米軍黒人兵に、いきなり背後から頭部と腹部を自動小銃で撃たれて虫けらを殺すように無残にもその場で射殺された。この事件は、日本人の目撃者もあり犯人も分かっていたのに、実情を調査した米軍憲兵隊は、「米軍に該当する犯人(または容疑者)は存在しない」の一言で、うやむやにされてしまった。
またこの日の午後にも‥たまたま港区の港北運河を米軍が通過した際に、…食糧不足を補うため運河べりの草むらに身を潜めて魚釣りをしていた男性が軍用トラックの上から米兵に頭部を自動小銃で狙撃されて射殺された。
さらに同じ日の夕刻、…中川橋の上を上陸用戦車(舟艇)に乗って通過していた米兵が、家を空襲で焼かれ停泊中の艀で船上生活をしていた母子の二人を鳥でも狙うように撃ち殺して海中に転落させた。
それから数日経過した11月初旬の深夜には、名古屋市営路面電車の車庫になっていた港車庫構内の一番奥に停車していた修理中の電車の中で、一人の婦人が暴行された挙句に心臓をピストルで撃たれて全裸に近い姿で死んでいた。…犯行現場の車内には進駐軍の洋モク(米国製たばこ)の吸い殻や米国製ウイスキーの空きびんが散乱していた。…米第25師団兵士の中の不良分子の仕業による犯行であることは疑う余地もなかった。
特に米第25師団の本隊が名古屋に上陸してから10日間位経過した頃から、婦女子への暴行事件が続発するようになった。…ことに夜の一人歩きの女性や娼婦風の女性が基地内に連れ込まれて夜通し大勢の米兵に輪姦された挙句、朝方になって無残にも軍用ナイフで刺し殺されたり、また銃殺されたりした。その上、犯行を隠すために遺体は、基地の北側を流れている横運河に投げ捨てられていたこともあった。…運河の中から引き揚げられた遺体は、米軍の犯行と分かっていても大抵の場合は、「生活苦による入水自殺」として片づけられてしまった。(p.p.245-246)
ことに戦後の2、3年間は、名古屋港内をはじめ名古屋市内を流れる庄内川や中川運河などの河川で、若い女性の水死体がよく発見された。それらの遺体の大半は、詳しく検死したり、死亡解剖するまでもなく、一目して明らかに強姦された後に殺されて捨てられた事が歴然としている遺体も多かったのである。しかも、その犯人のほとんどが米軍兵士であった。死人に口なしの例えのように、日本の警察も米軍の犯行とわかって米憲兵隊に通報しても、返ってくる言葉はいつも決って判を押したように調査をしたが「米軍に該当する犯人(容疑者)は存在しない。恐らく〔生活苦による入水自殺〕と考えられる」の一言で簡単に処理されてしまったのである。文字通り、やりたい放題の治外法権であった。
昭和21年の五月上旬には、名古屋に短期間進駐した英連邦軍の印度兵に農夫が自動小銃で近距離から撃たれて重傷を負っている。また三菱航空機製作所大江工場では、昭和20年11月頃に約2000名以上の米軍兵士が進駐していたことがある。ここでは、日本人のコックや雑役労務者たちが大量に採用されていて、彼ら米兵たちの食堂や洗濯場で働いていた。米兵たちは、これらの日本人労務者の働きぶりが気にいらないと、すぐ殴る蹴るの暴行を加えていた。殴られた場所が急所であったような場合は、内臓破裂などの症状を起こして死亡する事件も発生した。
筆者の父(戦後、強制的に愛知県の通訳官をさせられていたが米軍の軍事異動命令を受けて昭和21年10月に神奈川県の通訳に転任になった)も、米第八軍横浜軍用図書館に勤務していた昭和26年9月に、勤務を終って単身赴任していた鶴見区生麦町の下宿に帰る途中の夜道で3人組の米軍兵士に集団で襲われた。殴る蹴るの暴行を受けて半殺しの状態になり、所持していた月給も全部奪われた。意識不明で倒れていた所を別の米兵に発見されて米軍の病院に収容された。しかし、この時、顔面と腹部に受けた強烈なパンチの傷害が原因で肋骨損傷、眼底出血と腸内出血の被害を受けた。そのため休職して名古屋に戻り治療に専念したが、病状は回復することなく次第に悪化し、ついに4カ月後の翌27年1月に他界してしまった。
…米陸軍長官宛にも協力要請の嘆願書を出してみたが、敗戦国民の訴えなんか無視されて、何の連絡もなくナシのつぶてであった。そのため父が入院していた米軍病院の証明書が提出できず、ついに一銭の補償金や見舞金も支給されず、文字通り殺され損となったまま今日に至っている。これが父の青春時代のすべてを費やして、明治から大正時代にかけて自由社会の米国に憧れ、はるばる太平洋を船で渡り皿洗い生活などを続けながら学資を稼いで十数年間も米国各地で留学生活をしていた国の軍隊行動であったのかと思うと強い憤りを感じた。しかも日本の敗戦で無理やり米軍に命令されて通訳官にさせられた父が、本業を捨てて微力ながらも自分自身では日米両国の懸け橋になるつもりで、懸命に努力を続けてきた甲斐もなく不慮の死を遂げてしまった。
(pp..247-248)
名古屋進駐当初の頃の米軍の軍用車両は、右側通行の習慣が抜け切らず道路の真ん中や右側を通行する車両も現れた。そのため市民はよく米軍の車両にはねられたり、ひき逃げされたりしたのである。しかもジープやトラックを運転していた進駐軍兵士が市民に人身事故を引き起こした場合は、そのほとんどが当て逃げやひき逃げ事件となって犯人は逃走した。米兵たちは、幼い子供が道路上で遊んでいる所をひき殺したり、田舎へ食料を買い出しに出掛けるため名古屋駅前を歩いていた2人連れの主婦たちを大型トラックで跳ね飛ばして死亡させても、何ら謝罪せずにそのまま走り去ってしまった。もちろん見舞金なども米軍は支払わなかった。文字通りやりたい放題の切り捨て御免であった。たとえひき逃げの犯行がばれても米軍兵士たちは日本人が米軍の進路を妨害したために起きた事件と報告すれば、ほとんどが不可抗力の事件として軍法会議でも無罪になってしまった。
(p.249)
このような進駐軍の犯罪を全国的に見た場合、やはり日本本土で最初の地上戦となった沖縄では、死亡事件を筆頭に各種凶悪犯罪事件が最も多く発生している。次いで関東、関西、東海地方の順に多発している。それに米軍は最後まで進駐軍の不法行為の実態を正確に公表しなかったので、その事件内容や件数も定かではなかった。しかし日本側の調査資料としては、全国調達庁職員労働組合が1958年の時点で実施した調査では、「占領期間中に犠牲となられたお気の毒な方の数を調べた所、全国で1万人から居られることが判明した」と公表している。
…これに対して日本の進駐軍被害者の遺族たちは、敗戦国の悲しさで日本人の人権は全く無視されて、何一つ進駐軍に抗議する事も許されず、ただ何事も黙って泣き寝入りするばかりであった。…ようやく昭和34年前後から日本各地で各県別単位の進駐軍被害者連盟を結成して機関紙も発行されるようになった。だが機関紙の紙面に掲載されている被害者や家族たちの悲しい手記を読んでも、依然として進駐軍の影におびえたり進駐軍を極端に意識していることが歴然としていた。なぜなら本当の感情をぶちまけた手記を書いたために、何時なんどきまた不都合な事態が発生して米英軍の報復のあることを憂慮して、心の底から米英軍兵士たちの犯罪行為を痛烈に批判したり、抗議したりすることを差し控えていたのが、余りにも哀れであり惨めであった。
また敗戦当時、日韓併合で日本国籍にあった在日韓国・朝鮮人たちの被害者には、同じような占領軍の迫害を受けたにもかかわらず、〔米軍に代わって遺族へ補償をさせられた]日本政府からは何らの連絡もなく補償もされなかった。
(p.p.251-252)
米英軍将兵が引き起こした数々の暴行事件や悪質な不法行為も戦後史の中に記述されておらず、すべて欠落している…これはその当時、政府機関をはじめ各地方公共機関が編纂した各種の行政年報や報告書等でも明確に実証されている。…進駐軍の厳しい言論の検閲を怖れた結果、占領軍の不法行為に関する実態の記述については、すべて‥自ら削除してしまったからである。(p.255)
占領軍は…昭和20年12月に米軍の占領政策を日本人や特に日本のマスコミが批判することを厳禁してしまったのである。
…特に米軍は進駐当初、人類史上最大の悲劇をもたらした広島、長崎の原子爆弾の被害に関する報道は、日本人の大きな憎しみと反感を買うのを恐れて、米軍が公表する場合を除いて絶対に記事にする事を禁止し厳重な報道規制を実施した。またB29の空襲で被害を受けた名古屋の詳細な人的被害の実態調査や報道も厳禁してしまった。そのため戦時中に190回あまり(米軍極秘統計報告書に拠る)にわたり爆撃された名古屋大空襲の正確な戦争被害は確認されないままになっている。
(p.259)
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昭和21年8月3日に岐阜県の陸軍各務原航空隊に進駐していた米第25師団第27連隊の下士官が、空襲で焼失した名古屋城に現われ、金鯱の鱗が溶けて固まった推定300グラム(米軍側の判断)の残骸を接収した…。米軍が押収した金鯱の数量は、秤で正確に計量することも許されなかった。実際には推定の300グラムよりも、はるかに多い2倍以上の分量の金塊であったようだ。当時、名古屋に駐留していた米極東第5空軍司令部内の将校たちの間では、押収された金鯱の溶解した残骸のすべては、小牧飛行場(現・名古屋空港)から直接アメリカ本国へ戦利品として空輸された話題でもちきりであった。
…このようにして各地から集められた日本の貴重な文化財の山は、普通の価値しかない昭和軍刀などと一緒にされて、名古屋港の埠頭桟橋倉庫に運び込まれた。ここで更に選定仕分けされて、上物と思われる逸品だけを米統合参謀本部や米国防総省へ戦利品として空輸されたり、また米軍の高級将校用の土産品として、入港してくる艦船で次々に米国へ送り届けられた。更にその他の普通の軍刀やサーベル、日章旗などは、下級兵士達が本国に帰還する際に、戦利品や記念品として大きな雑嚢袋に入れて持ち帰ってしまったのである。このように敗戦後の日本から持ち去られた貴重な文化財や美術品の中には、その後アメリカのボストン美術館やイギリスの大英博物館などの米英諸国に密かに持ち込まれた収蔵品もあり、その数は相当の量にのぼっていることは、美術専門家や学者の間で周知の事実となっている。しかもこれらの美術品の秘蔵については、今日ではご丁寧にも明治初年の神仏分離令によって起きた廃仏毀釈運動で、日本の庶民が二束三文の安値で手放したものを収集したというまことしやかな理由や説明までつけられている有様だ。
(p.p.134-135)
名古屋周辺地区では、戦災を免れたり野積みにされたままの軍需物資が未だ大量に残されていた。また田舎に工場を疎開したために、機械をはじめ原材料とも無傷のまま終戦を迎えた軍需工場も多数存在していた。
戦後米軍の指示により、これらの軍需工場や陸軍造兵廠等から没収された軍需物資の内訳は、ジュラルミン板、アルミのインゴット、鉄鋼、ゴム靴、合板、玄米、大麦、板ガラス、綿布、紡績機、各種工作機械、旋盤、軍用トラック、硫安、セメント、鉄道用レール等の多品種に及んでいた。その何れの物資も焼け野原と化した敗戦国の日本では、再建のため喉から手が出るほど欲しい必需品ばかりであった。だが米軍は無情にも、これらの物資を連合国の現物賠償物資に指定し、日本人の民需用に転換して平和利用することを一切禁止してしまったのである。ことに陸軍の熱田造兵廠には、武器弾薬の他に何故か大量の古米や大麦なども備蓄していた。言うまでもなく日本人の主食になっていた米や麦は武器ではないのに、すべて賠償物資として没収されてしまったのである。
このように名古屋を中心とした東海地方から米軍に強奪没収された大量の残存必需物資や文化財等は、名古屋港の中央埠頭桟橋へ続々と集められた。これらの物資の中で利用価値の高いものは、真っ先に米国に搬出された。また、その他の物資は、主に米国と作戦行動を共にして対日戦を戦ってきた中国、フィリピン、オーストラリアなどの各国へ現物賠償物資として毎日のように船積みされて海外に大流出したのである。
…それを国民の復興のための民需に再利用することができれば、あれほど戦後に市民が物資の不足で困窮しなくても自立し再建することができたはずである。
(p.p.135-136)
米軍は占領初期の頃の日本を密かに食糧攻めにして、容易に立ちあ上がれない様にしておく事を重要な占領政策にしていた…。そのため窮乏していた日本の主要食糧の米や麦は、昭和20年度産の米作が悪天候による不作を理由にして、米軍の厳しい指示により日本国民の主食の配給量を極限に近いところまで減らしたり欠配させていたのである。
師団長モラン(C.I.Mullins)少将
「連合国軍の日本占領を成功させる手段としては、先ず日本人の食糧不足を利用して、当面は食糧を封鎖して日本人の抵抗意識を防止することを第一目標にする。…次に…徐々に米国の余剰農産物を活用して無償援助または有償援助を実施して、日本人に恩義を感じさせる。それまでは、たとえ日本農業の米麦が増産されたとしても、配給量を絶対に増加する許可を日本政府に与えてはならない」(p.p.136-137)
また悪辣な米兵たちは、日本側の説明で命令事項が期日までに履行できないことが分かるとその延期を認める代償として暗に女(占領軍慰安婦)を無償提供したり、土産やプレゼントの賄賂を要求することも日常茶飯のように行われた。こんな狡猾な軍政が繰り返されるたびに進駐軍の絶大な権力に恐れをなした官公庁や商社の幹部は、ただ彼らの命令に言うなりに従うより仕方がなかった。それに味をしめた一部の米軍将兵は、ますますエスカレートして事あるたびに無理難題を押しつけるようになった。
ことに米極東第5空軍司令部の中堅クラス以上の一部の軍政将校の中には、暇さえあれば連日のように日本側の弱みにつけ込んで命令の履行状況や市民生活のあらゆる面に難癖をつけて、その見返りとしてパーティーを開かせたり芸妓を抱かせることを強要した。しかもそれだけでは物足らず、彼らは事あるたびに日本の美術工芸品や高級和服絹製品などを盛んに無償で調達するように命じた。
(p.191)
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