Oda, S. (2017). Gohyakunijūyonin no inochigoi: Nikkō hyakunijūsanbin jōkyaku jōin kaishi no nazo. Tōkyō: Bungeisha.
‥一人の乗客がカメラを123便の窓の外に向けて夢中で撮った空飛ぶ点影の写真。‥遺族は早速、その写真をマスコミに公開したいと考えた。ところが、群馬県警がそれを制止した。‥惨劇の犠牲者が最後に見たものを写したフィルムを遺族から取り上げて保管し続けた。このフィルムが遺族の手に戻されたのは、それからじつに5年後の歳月を経て‥事故についてもはや誰一人として刑事責任を問われないことが確定した後、さらに付け加えればもはや過失致死事件としての「時効」が成立した一週間後のことだ。(p.48)
◆告白―最後のパズルピース
123便が墜落したその日、ある航空自衛隊の基地司令官(当時)から一人の男性に電話が入った。この司令官は、電話の向こうで男性にこう言った。
「えらいことをした。標的機を民間機に当ててしまった。今、百里基地から偵察機2機に追尾させているところだ」
この司令官と男性とは、第二次世界大戦中に同じ部隊に所属した戦友だった。共に同じ戦争の時代を過ごした軍人同士の絆は強く、長い年月を経ても相互の信頼は厚いと言われる。その信頼ゆえの気安さだろうか。電話口の向こうで語る基地司令官の声は、まるで「やっちまったよ!」とでもいうようなあけっぴろげな調子に聞こえたという。(p.p.51-52)
◆前橋地方検察庁の不起訴判断
90年7月17日、前橋地方検察庁は告訴・告発されていた関係者について、いずれも不起訴を再決定した。…山口検事正が遺族の前で語ったのは、事故調が描いた事件のシナリオに対するあからさまな批判と否定だった。
<最終報告書を読んだが、修理ミスが事故の原因どうかわからない。> <事故調の報告書は、「曖昧」だと思う。> <機内が静粛であったのだから、隔壁は破壊していない可能性がある。> <ボーイング社は(同型機全体の問題ではなく)事故機だけの原因にしたくて修理ミスを認めたのかもしれない。> <それ(報告書)を見ても、真の事故原因は解らない。> (p.p.20-21)
◆消えたボイスレコーダーの記録
公式に事故調から発表されているCVR(コックピットボイスレコーダー)の中には、アントヌッチ中尉が輸送機の中で聞いたという横田管制と123便の間の交信に該当する会話が採録されていないのだ。123便が刻々と横田基地に近づいている時間帯。その時間帯のCVRには、123便から横田への着陸要請や着陸を受け入れる旨を伝えた[とアントヌッチ中尉が10年後に主張する]横田からの通信が一切残っていない。(p.p.75-76)
‥事件から10年後の95年8月20日、『サクラメント・ピー』紙に、自分が123便墜落事件で経験したことを手記にまとめて発表した。さらにその内容は、米軍の準機関紙『星条旗(Stars and stripes)』紙に転載発表される。(p.153)
◆事故直後には真実を知っていた報道陣―政府は真実の報道を禁じた
某新聞記者は、自衛隊ヘリが墜落現場からオレンジ色の残骸を吊り上げる写真を撮った。本社に送られたその写真は、翌朝の朝刊トップに載るはずだった。ところが、この写真はなぜか没になった。‥後に自衛隊の機材にはオレンジ色の塗装がされていることが分かり、やっとその重大性を認識したという。(p.196)
モニカ・ブラウが著した『検閲』という書物は…次のように記している。
ReplyDelete“日本人のあいだでの情報のやりとりを統制、監視する付加的な手段として、アメリカの宣伝をはかる特別の一局が設けられた。これは「民間情報教育局」(CIE)とよばれた。この機関は、「日本人の思考を改造…する」ために、日本の新聞、ラジオ、学校、教会、およびあらゆる種類の組織を活用することをめざしていた”(p.p.227-228)
また、CIEは教育映画を無料で配給して、学校・公民館・PTA・青年会・労働組合・農業協同組合などで上映させた。そのために、一六ミリ映写機も無料で貸し出された。
CIEの前身は、太平洋戦争において「ラッカサン・ニュース」などで活躍した米軍の〈心理作戦課〉であった。…つまり対日心理作戦の専門部隊であった。そして、CIEの局長であるダイク准将も、《ウォーナー伝説》の創作者ヘンダーソン中佐も、共に対日心理作戦に従事した専門家だったのである。
つまり、CCD[*民間検閲支援隊]が検閲を通して、原爆報道などアメリカの悪いイメージの流布を阻止することを任務としていたのに対して、CIEの任務は宣伝によって、日本軍国主義の批判やアメリカのよいイメージの普及をはかることにあったのである。(p.p.228-229)
吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』
アメリカの謀略で重要なものにノーフォーク事件というのがあります。アメリカの隣に、社会主義のキューバという国ができた。アメリカの軍部は潰さなければいけないと思ったが、いきなり軍事力で出て行ったら、国内世論に叩かれるので大変なマイナスです。ここで謀略があったという記録、参謀総長まであがった文献が出てきます。
ReplyDelete…まずアメリカの客船を、ミグの形に改造した米軍機が攻撃するのです。定期便が交差する時間帯、空域を選んで攻撃すれば、定期便に乗っている人が誰か見ていて、攻撃した飛行機はミグの形をしていたと証言が得られます。ミグならば、すなわちキューバという事になります。攻撃される客船には、夏休みの学生を乗せておいたのです。
この資料はケネディ暗殺と関係して、アメリカの公文書館から出てきました。その中に、この作戦の決裁書類が入っていました。国家のためなら、一般民間人を殺すのは平気なのです。
孫崎享, et al.『いま語らねばならない戦前史の真相』
1985年8月12日、羽田を飛び立ち大阪(伊丹)に向かったJAL123便は、この横田空域の上空でトラブルを起こしました。もし、横田空域がなければ、もっと低空を飛んでいて事故にあわなかったかもしれません。機長は直ちに横田基地への着陸を要請したものの、断られたという話も伝わっています。(p.47)
ReplyDelete池田整治『未だ占領下にある日本の是非を問う』
垂直尾翼を壊滅的に破壊するには、飛行物体は相当に高速(例えば、マッハ2~5程度)で、重量も1000kg程度が必要である。123便の飛行空域にそのような飛行物体が飛来し、垂直尾翼に衝突することなどあり得るのだろうか。この衝突が何であったのかを期せずして告白・証言した人物がいる。当時の航空自衛隊百里基地司令官である。航空自衛隊百里基地の稲吉司令官は、戦時中の軍隊で同期だった友人(岩田祐次郎氏、青島海軍航空隊吉津会会員)に電話でこう語っている。「えらいことをした。標的機を民間機に当ててしまった。今、百里基地から偵察機(F4E改造機)2機(式地豊二尉ほか)に追尾させているところだ」同司令官は「事故だ」との感覚で気楽に友人に話したのだろう。
ReplyDelete小田 周二 『永遠に許されざる者』
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